コラム 2024.02.29

【ラグリパWest】3年目の広がり。『北洋建設Presents Nanairo CUP北九州』

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】3年目の広がり。『北洋建設Presents Nanairo CUP北九州』
3回目となる『北洋建設 Presents Nanairo Cup 北九州』は、2月10、11日の2日間、ミクニワールドスタジアム北九州で行われた。この女子7人制の大会を共催したナナイロプリズム福岡のトップは村上秀孝CEOである。村上CEOは整形外科医であり、福岡・田川にある村上外科病院の院長をつとめている。左に映っているのは大会優勝カップ


 大義がある。

 女子ラグビーのため。その行動は楕円球界全体にも広がってゆく。

 女子7人制の大会があった。共催の実質的な中心になった村上秀孝は破顔する。
「たくさんの人たちから女子ラグビーってこんなに楽しいんだね、と言ってもらえました」
 目も口も線で引いたように細くなる。

 村上は女子チーム「ナナイロプリズム福岡」のCEO(最高責任者)。本業は整形外科医である。福岡県田川にある村上外科病院の院長をつとめている。年齢は57である。

 その村上の思いを秘めた大会は『北洋建設Presents Nanairo CUP北九州』。今年で3回目の開催になった。副タイトルは「Kyushu Women’s Sevens 2024」とつけられている。セブンズ=7人制である。

 大会が始まったのは2022年。今年は2月10、11日、同県小倉のミクニワールドスタジアム北九州にホストのナナイロを含めて10チームが集まった。大会には中学生の交流試合や小学生を対象にしたラグビー教室や試合も含まれている。

 ナナイロはこの大会、3位に終わった。優勝するながとブルーエンジェルスに0-28で敗れ、女子SDSシニアアカデミーには17-17と引き分けた。

 ナナイロのヘッドコーチ(監督)、桑水流(くわずる)裕策からは反省の弁が出た。
「簡単なパスミスなんかが出ました。僕がこれからどう育ててゆくかだと思います」
 桑水流は「ミスターセブンズ」。8年前、リオ五輪で主将として、男子日本代表を史上最高の4位に導いた。

 この大会では初めて海外から2チームの参加があった。オーストラリアのバレーンイアー、日本を含め香港、韓国の選手で構成されたアジアン・バーバリアンズがそうである。海外からの参加に伴い、主たるラグビー協会が九州から日本に格上げされた。

 豊田将万(まさかず)はヘッドコーチ(監督)として九州産業大を率いて参加した。
「女子の大会は少ないので、こういう機会はとてもありがたいです」
 豊田は東福岡から早大を経て、廃部したコカ・コーラでバックローとして活躍した。15人制の日本代表キャップは9を持っている。

 豊田が言う女子大会の中心は15人制の日本選手権と7人制の太陽生命ウィメンズセブンズシリーズである。ナナイロのこの大会はその2つをつなぐ形になっている。

 日本選手権の決勝は大会1週間前、2月3日にあり、東京山九フェニックスが三重パールズを40-24で降した。太陽生命シリーズは4戦制で行われ、今年の第1戦はこの同じスタジアムで4月6、7日にある。

 太陽生命シリーズにおいてナナイロは昨年、史上最高の総合順位4位と健闘する。最終第4戦の大阪・花園大会は準優勝。ながとブルーエンジェルスに7-26だった。

 そのチーム力の高まりと大会の認知度は比例する。大会初日、あいさつをしたのは久木元(くきもと)孝行。九州ラグビー協会のトップ、会長である。始球式として、キッキングをしたのは大庭千賀子。このスタジアムがある北九州市の副市長だった。

 この開会式を含め、大会を下支えするボランティアのスタッフには「チキン坊や」のから揚げ弁当がふるまわれた。
「この店は東福岡のOBがやっています」
 誰かが教えてくれた。弁当ひとつにもラグビーと縁のある業者がたとえわずかでも立ちゆくように考えている。

 そのボランティアのスタッフ数について、安永英樹は話す。安永もそのひとりで整形外科医としてグラウンドに詰めた。
「1日、100人は来ているはずです」
 管轄の大きい順から九州、福岡県、北九州の各ラグビー協会。安永の母校である久留米大からも学生トレーナーらが参加した。

 そのスタッフの中にはナナイロのチームディレクター、吉岡泰一(たいいち)や監査役の中村裕介も含まれる。

 吉岡はメインの北洋建設を含め、大口のスポンサーを数える。
「20社は入ってもらっていると思います」
 吉岡は45歳。延岡東から関東学院に進み、九州電力(現・九州KV)でプレーした、現役時代はコンタクトに優れたCTBだった。

 この大会のスタート、そして発展はナナイロCEOの村上の実行力によるところが大きい。すでに10代からその芽はあった。

 一浪時に通っていた北九州にある予備校でラグビー部を立ち上げた。当時を知る人は言う。
「あの予備校は厳しい予備校でした。そこでラグビーに限らず、クラブを作ったなんて話、聞いたことがありません」
 その上で久留米大の医学部に合格した。

 その浪人時代を過ごした小倉は思い出の街である。2回大会から会場は県内の本城陸上競技場からここに変わった。村上は「故郷に錦を飾った」とも言える。

 実行力のみならず、村上には人をもてなす気持ちも大いにある。初日、医務を中心とした打ち上げは小倉であった。そこに顔を出し、スポンサーが会食をしている博多に向かった。そして再び小倉の会に戻ってくる。

 ある医務の長老は言った。
「村上先生は相当持ち出しをしているよ」
 この大会は太陽生命シリーズにならい、入場無料で続けられている。村上は細かいことには触れなかった。
「私はラグビーのおかげでここまで来させてもらいましたから」

 村上が競技を始めたのは愛光。この愛媛の中高一貫校から予備校、大学でも医学部チームでラグビーを続けた。2011年にはW杯日本代表のチームドクターについた。

 2日間の観戦者数は4200人。前年の3500人から700人増になった。来年はアフターマッチファンクションの会場を変え、さらに大きな大会にするという。大義があれば人は集まる。その典型になっている。

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