その他 2024.02.26

「古豪復活」の鍵を探る。天理大学・小松節夫監督×野澤武史ユース戦略TIDマネージャー

[ 多羅正崇 ]
「古豪復活」の鍵を探る。天理大学・小松節夫監督×野澤武史ユース戦略TIDマネージャー
小松監督(左)と野澤マネージャー。「古豪」をテーマに語り合った(写真:松本かおり/野澤武史)

「古豪(こごう)」は、経験豊富で力のある人や集団を指す。

 スポーツでは、しばしば実績のある伝統校を指す言葉として用いられ、低迷期を経て再び脚光を浴びる際に「古豪復活」などと表現されることもある。

 古豪には、長い歴史と伝統がある。

 そして成功体験がある。

 新興勢力とは違う難しさのあるチームを、どう再強化するのか。難題と向き合ってきた2人の指導者が「古豪復活」をテーマに語り合った。

 一人は、1993年度から天理大学を率いる小松節夫監督。

 天理大学は1980年代にベスト4(1984年度)に上り詰めた全国強豪だったが、1992年度に2部下の関西Cリーグに転落。その翌年度にコーチに就任すると、見事立て直し、2020年度には悲願の初優勝を成し遂げた。

 異色の経歴を持つ、穏やかな語り口の智将だ。主将を務めた天理高校時代には高校日本代表に選出。代表同期には故・平尾誠二氏がいる。高校卒業後に2年間のフランス留学(ラシンクラブ)を経て、同志社大学に入学。卒業後は日新製鋼でプレーした。

 もう一人は、元日本代表で山川出版社社長の野澤武史氏。愛称は「ゴリさん」。

 日本ラグビーフットボール協会では、ユース世代のタレント・発掘を統括する「ユース戦略TIDマネージャー」を務める。

 21歳で日本代表入りした元神戸製鋼のフランカーは、日本最古の古豪・慶應義塾大学で、創部100周年の日本一(1999年度)という“古豪復活劇”をプレイヤーとして経験。現在は 指導者(外部コーチ)としても、全国複数の伝統校でスポット指導にあたっている。

 そのうちの一校が、進境著しい佐賀工業。

 昨夏の7人制ラグビー全国大会で創部初の高校日本一。桐蔭学園の優勝で幕を閉じた第103回全国高校ラグビー大会(花園)では、23大会ぶりの準決勝進出。高校日本代表には3名(大和哲将、井上達木、服部亮太)を送り出した。

 古豪の復活という難しいテーマと向き合ってきた2人の対談は、出版社社長でもある野澤氏の問題意識から始まった。

古豪復活の鍵

野澤「日本のビジネス界にとっても『古豪復活』は大きなテーマです。終わりが近づくプロダクト・サイクルをどう右肩上がりにするか、という課題に悩むビジネスパーソンは多いと思います。ビジネス界のヒントにもなればと考えて、『古豪復活』をテーマに小松監督のお話を伺いたいと思っていました」

小松「天理大学は私の就任以前にベスト4(1984年度)という実績もありましたが、大きな意味で『古豪を復活させた』という意識はありませんでした。このテーマでの対談は初めてのような気がします」

野澤「そもそもですが、天理大学の指導者になった経緯はどのようなものでしたか?」

小松「天理の出身で、年齢的に引退が近い、というところで白羽の矢が立った感じです。話をもらった時、関西AリーグからBリーグに落ちたタイミングでしたが、『もう1年待ってほしい』と言われてもう1年待ったら、その年にCリーグに降格してしまって(笑)」

野澤「想像を絶するスタートですね(笑)」

小松「ですから、まずは2年前までいた関西Aリーグに戻すことが役割でした。そして大学選手権でベスト4まで行ったことがあるチームなので、元の姿に戻したいという想いがありました。そして夢として、自分が同志社大学時代に負けた決勝(1987年度/同大10-19早大)に勝って日本一、というのはありました」

野澤:「古豪復活の難しさは、現場だけではなく、OB会をふくめた全体として上手くいっていない場合がある、という点だと思います。慶應(義塾大学)を創部100周年の日本一に導いた上田さん(元慶大監督の故・上田昭夫氏)は、オーストラリア流のラグビーを導入したり、学ランをブレザーに変えたりと、周囲との軋轢を恐れずに変革を遂げました」

小松「天理大学ラグビー部にOB 会はありますが、当時は注目度が低くて、期待も大きくなかったと思います。だから僕は比較的自由にできたんですね。CリーグからAリーグに昇格するまで10年掛かっているので、普通だったら辞めていますよね」

野澤「もっと早くAリーグに復活したイメージでした。早期に結果を求められる昨今の大学ラグビー指導者からすると、OBもよく我慢されたな、と感じます」

小松「今となってはCリーグに落ちていたことが良かったのかもしれませんね」

野澤「古豪復活の足かせになるのが、過去の栄光です。現在の強化方針を(過去の栄光との)“比較で決めない”ことが求められます。小松監督が就任したタイミングは、そうした観点から見ると、むしろグッドタイミングだったということですね。ちなみに就任当初はどんなアプローチを取ったんですか?」

小松「2年前までAリーグにいたチームなので、1年目は当たり前の事をするだけでBリーグに上がれましたが、ただBリーグの1年目は入替戦にも出られず、自分の中で『あれっ』と思ったんですね。そこで『俺がやっていた事を真似していたら勝てるよ』という考えは違うんだ、と思いました。そこであらためて僕自身がラグビーと向き合い、具体的にはディフェンスの強化に取り組みました。一緒にビデオを見ながら、トライを取られた原因を徹底的に探りました」

野澤「2年目で入替戦に出られなかった時点で、自分の指導法を疑い、手法を変えるのは凄いですね。自分と向き合う強さのある小松さんだからこそ、天理はその後も成長を続けたのだと感じます」

異なる時代に復活遂げた天理と慶應の共通点

小松「同時に、選手には『ラグビーの楽しさ』を伝えようとはしていましたね。当時は『厳しい練習に耐えてこそ勝てるんだ』という風潮が残っていましたが、僕自身、厳しい反復練習、根性練習が嫌でした。初めてグラウンドに行った時は衝撃的で、みんな練習時間になるとゾロゾロとグラウンドに出てきて、退屈な反復練習をダルそうにやっていた(笑)。悪気なく自然とそれをやっていた選手たちに『ラグビーは楽しいよ』という伝えるところからでしたね。2年間ほどフランスに行った経験も多少影響していると思います」

野澤「慶應大学も猛練習をして勝っていったチームですが、過去優勝した後、猛練習だけが残っていました。中学時代、隣で慶應大学が練習していて大学生がバタバタ倒れていく。『大学に行ったらアレやんなきゃいけないのか』『ラグビーやりたくないな』と思っていました。いざ大学に入ったら『いかに新しい事を取り入れるか』に変わっていた。上田さんと林雅人さん(元HC)がオーストラリア式のラグビーを導入し、それが勝てない時にもがいた歴史と、上手くミックスされたと思います」

――天理大学の小松監督と、慶應義塾大学の上田監督。国際感覚を持つ指導者が不合理な根性練習を排した、という点が共通しているように思います。“古豪復活”には改革が必要なのでしょうか?

小松「ただ先輩たちが何度も跳ね返されて、その都度工夫して、改善を重ねて――そうした先輩たちの経験したものが伝統になって、目に見えないものとして積み重なっていることは確かです。2020年に初めて日本一になった時は、(約20年前の)Aリーグ昇格も含めて、目に見えない積み重ねを感じましたね」

野澤「勝ったり負けたりした経験を積み重ねていたチームが『その経験を使える準備』がある、という感じがします。私が大学に入学する前、選手権にすら出場できていなかった5つ上の代が、早慶戦に1点差(18-17)で勝った。そうしたら次の年は圧勝しました。一つの“奇跡”をフックにして、今度はその”再現性“に頭を使えるようになる。これは最近自身が指導者になって体感したことでもあります。私は入学からの4年間はすべて大学ベスト4以上でしたが、それは私の入学前に先輩たちが、様々な経験を部に積み重ねてくれていたからだった、と最近は強く感じるようになりました。おいしい時に慶應でラグビーをさせて頂きました(笑)」

小松「天理が84年度にベスト4にいった時は、国立で慶應に負けているんですね(0-20)。その後立川理道の代に2回戦で慶應に勝って、27年ぶりに国立(ベスト4以上)に戻りました。その準決勝は国立で関東学院に勝って決勝に行くんですが、その時は先輩たちが(27年前に)準決勝で負けていたという、昔の経験があったからこそ、ポンポンと決勝まで行けたと感じてます」

――少し逸れますが、奈良の天理大学は、その東京・国立競技場で、アウェーという心理的圧力を戦ってきた歴史がありますね。

小松「だからと言って、決勝を花園でやってほしいとは思わないんですけどね(笑)。そこは変えることはできないですし、変えてほしくない部分です。やっぱり国立が大学生の憧れなんです。いま京都産業大学さんも苦しんでいるところだと思いますが(昨季3大会連続10度目の準決勝敗退)、そのうち越えてくれると思います」

復活した古豪・佐賀工業。野澤氏は“哲学”へのアプローチで手助け

――今年の花園では、野澤さんが外部コーチとして携わる佐賀工業が、23大会ぶりに花園ベスト4に進出しました。

小松「僕は知らなかったな。ゴリが佐賀工業に行っているのは」

野澤「だいたい月1回のペースで行っていて、今年で8年目になります。他にも大阪朝高、城東(徳島)、熊野(和歌山)、坂出第一(香川)、母校の慶應高校(神奈川)など歴史があるチームに携わらせて頂いていますが、外部コーチなので、毎日一緒にいられるわけじゃありません。佐賀工業を例にしますと、当初は張り切ってボールを動かす新しいラグビーを指導するのですが、次に行った時には元に戻っている(笑)。それをしばらく繰り返していたんですが、結果が出ないことが本当に悔しくて、やり方を変えたタイプです」

小松「よく分かります。指導を頼まれると1、 2年目は張り切ってしまうので、自分の色を出したくなる。けれども最終的には『自分がやりたいようにやるにはどうしたらいいか』と考えて動くようになりますよね」

野澤「私の場合は『チームの哲学にアプローチする』というやり方に変えました。まず佐賀工業さんの40年分くらいの資料を貸して頂いて、それを全部読んで、小城博先生(総監督)に『佐賀工業の哲学って何でしょう』と話をインタビューしました。そこで『不撓不屈』という言葉に行き着きました。その言葉はチームのいろんな場所に書いてあったのですが、あまり使われておらず、少し錆びついている印象を受けました。もちろん誰も漢字で書けない(笑)。でもこの言葉に再度魂を吹き込めば使えるし、OBと現役をつなぐ架け橋にもなるかも、と考えました」

小松「ラグビーよりも『不撓不屈』というスローガンに気付いて、外部の人がメスを入れて、もう一度落とし込んでくれる――すごく面白いなと思いますし、意外にそういうもんなんだなと思いますよね」

野澤「現在は『不撓不屈』から、選手に対して『じゃあ不撓不屈のラグビーをやるために必要なスキルは何だろう、みんなの代の不撓不屈ってどんなラグビーだろう?』と問いかけて、選手達に決めてもらっています。いわばコンサルのようなやり方に変えたんです。昔は試合ごとに小難しい話をしていましたが、今では「不撓不屈のラグビーを体現してきてください」のひと言で選手を送り出しています。就任当初に比べると楽になったものです(笑)」

小松「この前の花園を見ていて、佐賀工業はタレントに恵まれているけど難しいのかな、と思っていたら、準決勝まで勝ち上がって『あれっ』と思った。そういうところがあったんだなと」

野澤「トップとやると負けていた中で、2大会前の101回大会にベスト8に進出したんですね。その時の3回戦(2022年1月1日)の相手は國學院久我山で、正直『厳しい』と感じていたんですが、ゴール前の押し込みとディフェンスという、本当に『不撓不屈』を感じさせるラグビーで勝った。その体験が自分にとっても大きくて、チームもそこから次の年もベスト8、今回のベスト4と続いています」

復活に繋がる負け方は『正しく負ける』?

野澤「さきほど“先輩たちの積み重ねが糧になる”という話題になっていましたが、私はその負け方が大事だと思っていて、『正しく負ける』ことがその後の復活に繋がるのかなと。指導者には、小手先ではなく『チームの幹、芯を貫いて負ける』という勇気、胆力が必要だと思っています。私はすごく欲のある人間で、どうしても大人の小手先で勝たせたくなってしまう。特に高校ラグビーはその誘惑がすごくあるんです。その誘惑との対峙はいつも考える部分です」

小松「よく言われるのは『その年のメンバーを見てラグビーを考える』という事で、それも正しいかなと思いますが、私の場合、あまりそれは考えないですね。極端に『今年はフォワードが強いからフォワードで』という考え方はあまりしないです。留学生もいますが、留学生を使ったスペシャルプレーを考えることもしませんし。チームとしてやることはブレずにやりながら、多少の工夫を加えるという感じです」

野澤「チームとしてやること、『天理ラグビー』という哲学にも通じる部分は、どう捉えていますか? 同志社大学であれば『自由』、慶應の場合は『魂のラグビー』といった象徴的な言葉がありますが」

小松「昔からそうですけど、天理のラグビーは身体が小さくて走り回って、という部分がベースとしてあります。それは中学も高校も大学もそうです。『工夫』や『走る』ことで勝負していく、というのは伝統ですね」

野澤「この前の花園の準々決勝で、優勝した桐蔭学園を相手に“仰星ラグビー”を貫いて24点取った東海大仰星(24-34で敗退)を思い出しました。湯浅(大智)監督がその年の選抜大会に出られなかったチームをベスト8まで引き上げ、チームの芯、軸を出し切って負ける姿をみると、逆に怖さを感じました。組織づくりは生き物で正解がない、とつくづく感じますね」

 

 小松監督と野澤氏には明確な共通点があった。ラグビー指導への情熱だ。結果が出なかった時、まず自分にベクトルを向け、自分が変わろうとする強さも共通していた。そして実際に変わり、成果に繋げている。

 古豪復活の道は一つではないだろう。だからこそ探求のしがいがある。数多ある古豪チームそれぞれに、復活への道筋が必ずあるはずだ。

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