【再録・解体心書⑥】もう一度、あの舞台へ。シオサイア・フィフィタ
憧れの選手とも対戦が実現した。ハリケーンズのCTBンガニ・ラウマペだ。2月29日、ネイピアでの対戦は15-62と苦いスコアとなった。
「結構やられました。フィジカルも強いし、スキルもあった。いつか、CTBとして対戦出来たら…」
強い相手と揉まれたことで、己の未熟さも見えてきた。
「自分に足りないものは、細かいスキル。世界で戦うなら、スキルとスピードをもっと速くしないと。沢木さん(コーチングコーディネーター)から言われたのもスキル。WTBでのボールキャッチについて、よく指摘されました。フィジカルは自信になったし、まだまだいけると手ごたえもありました」
新型コロナウイルスの影響で日本での試合が開催中止となり、海外での生活は長かった。ルーミーは、テビタ・ツポウ。向こうでは日本食が恋しかったという。
「ずっとオーストラリアにいてホームシックとかはありませんでしたが、日本の寿司が食べたかった。僕はサーモンが好きなんですけど、日本のほうが絶対おいしい。向こうでも食べに行ったから、これは間違いない。日本に帰ってきて、すぐに食べに行きました(笑)」
様々な国から集まった仲間と過ごした時間。短かったけど、濃密な日々だった。
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愛称サイアことシオサイア・フィフィタはトンガ王国ハアバイ諸島で生まれた。上に兄、下に妹が二人の4人きょうだいの2番目。父・バウラさんもクラブチームでラグビーをしていたが、父親の試合を見た記憶はない。サイアは小さい頃からスーパーラグビーの試合を見るのが大好きだった。
「10歳の頃から、スーパーラグビーの試合はライブで欠かさず見てました。’11年に優勝したレッズが好きでしたね。選手はハリケーンズにいたタナ・ウマンガが好きでした。学校で普通にタッチフットはやってましたけど、ずっと本格的なラグビーを始めたいと思っていた」
小学校を卒業し、本格的にラグビーを始めるにあたって、フィフィタ少年が希望したのは、本島にある名門トンガカレッジでのプレー。
「ハアバイ島にいてもラグビーはできましたが、どうせやるなら、一番強いところでやりたかった」
次男の入学を機に、一家でトンガタプ島に居を移した。母親は小学校の教師をしており、ハアバイ島に派遣されて子どもたちを教えていた。父も仕事でNZに行くことが多かったから、引っ越すのは難しいことではなかった。それでも、家族でフィフィタの夢をかなえようと後押しがあったという。
トンガカレッジに入学した当時は、まだ線の細い少年。それでもスピードは抜きんでており、すぐにファーストグレードのチームに。かたわら、陸上でハードル競技もやっていた。
「本格的にラグビーを始めたかったけど、コンタクトは苦手でした。80㌔もなかったから。その頃はスピードで相手をかわしていました。
トンガは中学と高校一緒になっていて7年間通うんですが、5年間通って、そこで日本航空石川からオファーが来たので、日本に来ました。ちょっと迷いましたが、新しいチャレンジをしたいなと思って」
’14年、日本航空石川に入学する。「最初は“こんにちは”しか知らなかった」というフィフィタが、トンガから石川県に着いた翌日、連れていかれたのは奇しくも天理だった。
「日本に着いたのがちょうどゴールデンウイークで、いきなり毎年の天理遠征に出かけて、Bチームで試合に出ました。まだ日本のラグビーもよく知らないし、チームメートの名前も覚えてないのに(笑)」
それでもシオサイア・フィフィタの名前はすぐに広まった。花園で思う存分活躍すると、天理大学に進学。
「ここに決めたのは、(ファウルア)マキシさん(現クボタ)たち先輩がいたこともありますが、大学で日本一になりたいなと。関東のチームは考えてなかったですね。僕が高校生の頃は帝京大が強かったので、いつか帝京大を倒して日本一になろうと思って天理に来ました」