【ラグリパWest】①最後のご奉公。今里良三 [花園近鉄ライナーズ/統括]
最後のご奉公、ですか?
「そうそう、そんな感じですなあ」
今里良三はチョコレート色の顔を緩めた。
ラグビーの名選手だった名残は、その皮膚に残る。現役時代、SHとして日本代表キャップは23を重ねた。
来年3月に喜寿を迎える。
「孫は5人います」
その今里が選手を含め30年以上関わった花園近鉄ライナーズに戻って来た。実質的なチームトップの「統括」につく。7月24日、ホームページ上で公式発表がなされた。
託されたのは立て直しである。先のリーグワンでこのチームは最下位の12位に沈んだ。ディビジョン1(一部)である。
立て直しを託したのは小林哲也。持ち株会社の近鉄グループホールディングスの総帥、会長である。
「こんな人生があるのか。ありえへん」
今里は思う。その小林が率いるのは鉄道、百貨店、不動産、バスなど150社ほど。ラグビーにとってはオーナー的存在である。
今里の入社年次は小林より1年遅い1969年(昭和44)。当時の社名は近畿日本鉄道だった。通り名は「近鉄」。今里はイベントを考え、乗車率アップに結びつける事業部で小林を上司に仰ぎ、業務に邁進した時期もあった。
グループ全体で考えれば、些末なラグビーの人事にまで、小林が乗り出したのは、ラグビーを大切にしてきたことの証しでもある。その創部は1929年(昭和4)。今年は創部95年目にあたる。
今里は選手はもちろん、コーチ、監督、部長などチーム内の要職すべてに就いた。その上をゆく人はいない。その経験と知恵を再建に生かしてほしい。小林が77の年になる今里を現場に戻した理由である。
そのラグビーの全権を持たされた今里がヘッドコーチ(監督)として、グラウンドのトップに迎えたのは向井昭吾だった。
「向井さんには尊敬の念を持っています。頑張り屋さんです。ヘッドコーチの人選の時に、一番に思い浮かんだ人でした」
向井は今年10月で還暦を2つ超える。現役時代はFBとして日本代表キャップ13を得た。監督として指導したチームはこれまで3つ。選手から横滑りした東芝府中(現BL東京)、日本代表、コカ・コーラである。
東芝府中ではペナルティーから間髪入れずに攻める「PからGO」で大学や社会人と日本一を争う日本選手権は3連覇、全国社会人大会(リーグワンの前身)は連覇を達成した。1996年度からである。
W杯は2003年。翌年、福岡を本拠地にしたコカ・コーラから招かれる。監督1期目は8年を過ごし、この強化に着手したチームをトップリーグ14チーム中、最高の8位まで押し上げた。2009年度のことである。その後はGMや2期目の監督を2年つとめた。
コカ・コーラは2年前、休部した。トップリーグからリーグワンに衣替えする中での負担増が主な理由だった。向井は最後の監督になる。同じ2021年の10月、還暦になり定年を迎えた。退職後はリーグワンのスタッフのひとりとしてその発展を助けていた。
今里が小林から来季のチーム運営を任せられたのは今年2月。そこから向井とメールのやり取りや複数回の面会によって、今回の就任にこぎつけた。契約は複数年。家族を福岡に残しての単身赴任になる。
今里は向井が日本代表監督だった2003年のW杯時のデータを示した。
「向井さんはW杯で最後の日本人の代表監督になりました。この時の大会では低い得失点差を残しています」
ともにマイナスではあるが、2003年は4試合で84。4年前は3試合で104だった。
このW杯において、向井は全権を任されていなかった。選手の選考において、日本ラグビー協会の上層部から掣肘(せいちゅう)を加えられた。その中で予選敗退とはいえ、それなりの数字を残した。今里が「頑張り屋」と言ったゆえんのひとつである。
次の2007年のW杯監督(ヘッドコーチ)はジョン・カーワンになり、エディー・ジョーンズ、ジェイミー・ジョセフと続いてゆく。今は監督に全権がある。
向井にとって、指揮を執るこの4つ目のチームで最初に注力しなければいけないことは、今里が得失点差でも示したそのディフェンスである。リーグワンでの失点はリーグ最多の854。最少の埼玉WK(旧パナソニック)の270と比べると、その開きの大きさが分かる。
向井は7月10日の就任会見で言った。
「ディフェンスは頑張ればなんとかなります。あとは規律ですね」
今里はその向井を頼もしげに見つめる。
「自信があるんでしょうな」
ただ、気迫だけでは難しい。2人の話し合いで、ディフェンスコーチを招へいすることが決まっている。
向井は7月からすでに指導を始めている。代表活動に関係のない選手たちが参加する。
「向井さんは厳しく指導できる人」
その練習を見守りながら、今里からは満足感が漂っている。