コラム 2023.06.15

【コラム】「それ、要は自分に重ね合わせているだけでしょう」

[ 向 風見也 ]
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【コラム】「それ、要は自分に重ね合わせているだけでしょう」
撮影:向 風見也

 2023年6月14日の午前中は、東京郊外で取材があった。約1時間のインタビューとカメラマンによる撮影を終え、謝辞を述べ、まず、腹ごしらえだと、近くに飲食店の集まる最寄り駅へタクシーで向かった。

 車中で茫然としたのは、スマートフォンでSNSを開いたからだ。

「広末涼子」

 短文投稿サイト『Twitter』の「トレンド」にはそう書かれていて、下に小さく「無期限謹慎」とあった。

 この国では最近、必要のない謝罪を強いられたり、謝罪の仕方やその場の空気次第で働く機会を失ったりするケースが多すぎないか…。一方で、市民の生活を圧迫する政治屋たちはのうのうと職責にしがみついているような…。

 常日頃ラグビーの寛容さに浸る筆者は、それまでに何度も覚えてきた違和感、虚無感にさいなまれ、今回に至ってはそのインパクトの大きさが想定を超え、ついに脳を適切に動かせなくなった。

 この日は本サイト『ラグビーリパブリック』のコラムの締め切りがあった。何を書くべきかを決めなくてはならなかったが、ふと、タイムリープしてしまった。

 1996年。中学2年だった。

 小学校卒業を機に引っ越していた地域で、もっとも大きな中学校に通っていた。

 その場で呼吸をしていた教員、生徒、全体を覆う空気の一切になじめなかった。異常なのは周りに適応できない自分ではなく、周りのほうだとただ憤っていた。

 毎週日曜の朝には小学5年から通っていた遠くのラグビースクールの練習へ車か電車で出かけた。多少の厳罰的な指導も、平日に通っている学校の陰鬱さに比べればましだからと受け入れていた。

 おかしいものはおかしいと伝えるだけの言語能力を持ち合わせていない当時、広末涼子は、ポケベルを始めていた。

 後にいくつものラグビー部を統合させるNTTグループの企業は、その頃、ポケットベルのサービスを展開していた。その事業のコマーシャルで吹き始めたのが、「ヒロスエ」という爆風だった。

 当時、安室奈美恵というアスリートのような歌姫がいて、そのファッションを真似る通称「アムラー」が渋谷を占拠していた。髪を茶や金にして、肌も焦がし、スカートを膝上までたくし上げ、底の厚いブーツを履いた。制服の場合はルーズソックスと呼ばれる分厚く白い布でふくらはぎを隠し、ローファーにつま先を差し込んだ。

 そのトレンドを「ヒロスエ」は、鮮やかに蹴散らしていた。

 ノーメイク風の白い肌。黒髪のショートカット。当時よく出ていた『ヤングジャンプ』では、中学時代に入っていたという陸上部のユニフォーム姿でグラビアを飾ったこともある。翌年には『ビーチボーイズ』というドラマで浴衣姿になって照れたり、口にするのが気恥ずかしいフレーズの歌を音楽番組で披露したりし、八重歯を見せた。

 全国各地の中学、高校の校則をひとつも破らぬようなビジュアルだった。かつ、当時ラグビースクールに通っていた筆者とそのチームメイトのうち何名か、もちろん不特定多数の10代男性を夢中にさせた。

 よくある「清純派」「どこにでもいそう」などというフレーズでは、決して形容できなかった。他の芸能人よりも身近な存在のように見せかけ、実はどの芸能人よりも遠い存在の怪物だった。

「同じ15歳としてどう思う?」

「ヒロスエ」が歌を出していた時期、筆者は近くの大人からそう聞かれることが増えた。ちょうど、自分と同じ15歳の少年が動物や子どもの命に手をかけてニュースになっていた。

 鬱陶しかった。「他者に殺意は覚えたことはあるが、さすがに実行しようと思ったことがない。だから同じ15歳でも、彼の気持ちはわからない」といった旨を、よりストレートな言い回しで述べて相手を黙らせた。憤怒の念を発散させられる場所は、ラグビーの練習や試合だけだった。

 高校のラグビー部では経験者が少なかったにもかかわらず、試合に出られるのは2年生になってからだった。1年生の頃の思い出と言えば、早大に受かったばかりの「ヒロスエ」のコンサートを見に日本武道館へ出かけたことくらいだった。

 3年生として最後の試合は、東京都でその頃あった10人制大会の準々決勝だった。

 約2か月後には大阪の花園ラグビー場で全国高校ラグビー大会が開かれたが、毎日放送の大会テーマソングを歌っていたのは広末だった。バブルのような「ヒロスエ」ブームを通過したその人は、髪を明るく染めてなお透明だった。

 浪人して成城大学へ入った筆者は、買い物と飲み会とレジャーに浸った。地球上に優しい友達がいると知った。楕円球との距離感を取り戻したのは、卒業後にスポーツライターを名乗り出してからだ。

 あちこちのグラウンドへ出入りし、最初に『ラグビーマガジン』に記事を書いたのは2008年4月号だった。

 同年には、広末が出演した映画『おくりびと』が世界の各賞を受賞していた。この作品を映画館で見た。一緒にいた8歳年上の女性が賞賛したのは、広末以外のすべての主演俳優だった。こちらは「え、広末に恨みでもあるの?」と発しかけて、喉の奥に引っ込めた。

 報道や本人のインタビューなどによると、広末はこれまで2度、結婚し、3人の子どもを持つという。

 そしていままでに親密ぶりが伝えられた男性には――本人の家族になった人にせよ、そうでない人にせよ――スペックや肩書きや名声よりも、内なる信念、才能、感性を重んじる印象がある。そのせいで筆者は、まるで無関係のはずなのに広末を支持したことを誇らしく思っていた。

「それ、要は自分に重ね合わせているだけでしょう」

 2023年で同居3年目となるパートナーには、そうたしなめられた。そう。男性の件はまったくもってこちらの思い込みである。

 そもそも、間接的に伝わる情報からでは本当のことなどわからない。そもそも個人の思いや哲学を、その人のキャリア、風貌だけで測るのは浅はかだ。それらをいましている仕事によって、例えば通算3度のワールドカップの取材経験によって、学んできていたはずだった。

 本業だけで人並みの暮らしを獲得するという幸運に恵まれ、ようやく一定以上の期間を過ごせた。10代で抱いた無形の怒りとどう決別するかを模索するさなか、出会ったニュースが偶像の「無期限謹慎」だった。また沸点が高まるのを感じた。

 引き合いに出しては失礼かもしれないが、「推し」の選手が何の前触れもなく引退してしまった時のファンの心理により共感できるようになった気もする。

 …と、いったような話をコラムにまとめたいと、取材後に本誌編集長、カメラマンと入ったラーメン店で提案した。

 こちらがさらに「最近購入して自宅にある写真集とラグビーマガジンを並べた1枚を添えてもよいか」と伝えれば、編集長は寛容だった。

「じゃ、フミヤの記事が初めて載ったやつにしなよ」

 御覧のサムネイルがそれだ。『ラグマガ』の表紙の右に映る山下大悟は、早大で広末と同級生だった(文中敬称略)。

【筆者プロフィール】向 風見也( むかい ふみや )
1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとなり、主にラグビーに関するリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「スポルティーバ」「スポーツナビ」「ラグビーリパブリック」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)。『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(共著/双葉社)。『サンウルブズの挑戦』(双葉社)。

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