コラム 2023.05.08

【ラグリパWest】熱く、教える。李大佑[京都市立向島秀蓮小中学校/教員]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】熱く、教える。李大佑[京都市立向島秀蓮小中学校/教員]
京都工学院ラグビー部のOB・OG会の会長である李大佑さん。京都にある市立の向島秀蓮小中学校の教員をしながら、冬の全国優勝4回の名門復活に向け、バックアップをする



 熱く、教えてもらった。

 山口良治からである。伏見工のラグビー部の3年間だった。そのお返しを今、同じ教育現場でしている。熱をこめる。

 李大佑(り・てう)は小中一貫校の教員である。両方の教員免許を持っている。

 勤務先は京都市立の向島秀蓮。「むかいじましゅうれん」と読む。「蓮」=れんこんを産するハス。学校のある伏見区南部が古代より巨椋池(おぐらいけ)だったことにちなんでいる。李は9年生=中3の学年主任だ。

 42歳の李には山口との忘れられない思い出がある。卒業を控えた高3の冬、練習中に指導者と衝突した。そのまま、帰宅してしまう。

 当時のことを2つ後輩の大島淳史(あつし)が短文で伝えてくれた。
<李さんは3年春にアキレス腱を切りました。花園出場が絶望的になり、少し自分を見失っていた時期がありました>
 大島は現在、京都工学院に名前を変えた母校ラグビー部を監督として率いている。

 李にはとっては3年間、打ち込んだラグビー。しかし、ケガもあってレギュラーにはなれない。無念さが渦巻いていた。

 その帰宅の翌日、朝6時に山口が家庭訪問をした。総監督となり、指導現場とは一線を引いたにも関わらずである。
「そら、放っておいたら、そのままクラブも学校も来んようになるやろ」
 山口は李を諭し、練習に連れ戻した。

 李は振り返る。
「山口先生は僕のような試合に出られない部員も大切にしてくれました。温かかった」
 山口が手を差し伸べなければ、李の人生はまた違ったものになっていただろう。

 山口は伝説の指導者である。監督就任6年でこの深紅のチームを全国優勝に導いた。60回大会(1980年度)である。
 主将は「ミスター・ラグビー」と呼ばれた平尾誠二。その道のりはテレビドラマや映画の『スクール★ウォーズ』として、全国津々浦々に喧伝された。全国大会出場回数は京都府内最多の20回。優勝は積み上げられ、4回になる。

 山口のすごみは戦術や戦略ではない。李に示したように教え子に対するその熱量である。「俺がやらねば誰がやる」。自著の題名にもなったその気持ちがチームを形作った。

 李には教育におけるポリシーがある。
<温かさの中で人は育つ>
 それは山口とのふれあいの中で生まれたと言ってもいい。
「子供がどんな現象を見せても、決めつけたらあきません。その子の背景、裏を見る努力をする。そうして初めてその子が理解できる」

 李は教員としてこの4月で20年目に入った。初等、中等教育のベテランである。向島秀蓮が3つ目の赴任先。小学校の春日野、小中一貫の開睛(かいせい)を経て、開校と同時にここに来た。学校はこの4月で5年目を迎えた。李はラグビー部監督でもある。

 李が競技を始めたのは伏見中2年の時だった。運動神経のよさを買われる。顧問で保健・体育教員だった井上敬治(けいじ)はまた山口の教え子である。スクラムハーフとして、ひとつ下の平尾とHB団を組んだ。

 当時の李は168センチ、50キロ。センターを中心にやった。同期は三宅敬(たかし)。ともに伏見工に進学する。三宅は関東学院から三洋電機(現・埼玉)に進み、ウイングとして日本代表キャップ4を持つ。

 李はケガもあって伏見工での公式戦出場はほぼない。大学は一般入試で花園に入学した。社会福祉学部に籍を置いた。
「兄がホームレスの世話をしていました」
 兄の洋佑(やんう)は学生時代から人権回復の活動をしていた。その影響である。

 大学2年の時、母校中学のラグビー部の外部指導員になった。教える面白みを知る。
「その時、指導した7人が伏見工に行ってくれて、V4の中核になってくれました」
 フルバックの清島(せいしま)大地やフランカーの田野純一である。85回大会(2005年度)の決勝は桐蔭学園に36−12だった。

 教え子を送り込んだのみならず、今は李自身が母校のために尽くしている。3年前、ラグビー部のOB・OG会の会長になった。就任有力とみられていた40代のOBが固辞し、教育者である李にお鉢が回ってきた。

「忙しいというレベルではありません。休みはありません。それでも、大島先生の大変さと比べたら、1億分の1です」

 後輩の指導現場での苦労を思いやる。京都工学院は全国大会予選決勝で7年連続して京都成章に負け続けている現状がある。

 大島は入学当時、肩を痛め、リハビリチームに入って来た。そこに李がいた。
「一目ぼれみたいなもんでした。話をして、一瞬でウマが合いました」
 2年後、大島は主将として全国大会を制する。80回大会(2000年度)の決勝は佐賀工に21−3。V3だった。

 李は大島の守護者でもある。その上で、組織のトップとして目指しているものがある。
「覇権争いは大事。でも、どんな選手でも工学院に来れば、年に数回はすごいOBから教えを受けられるようにしてあげたい」
 内田啓介(埼玉)、嶋田直人(横浜)らの名前が挙がる。その環境作りに邁進する。

 李は最近、その会長就任も含めたこれまでの半生や教育論などを一冊の本にまとめた。タイトルは『マイノリティの星になりたい』。明石書店から今月17日に発刊される。李は在日韓国人の三世でもある。

「手にとっていただけたらうれしいです」
 李自身がこの300ページ近い大作から、自分自身のこれまでを整理する。そして、さらに前に進む。その傍らには楕円球が、後輩たちが、そして教え子たちがあり続ける。


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