コラム 2022.09.23

【ラグリパWest】オガとハル。

[ 鎮 勝也 ]
【キーワード】, ,
【ラグリパWest】オガとハル。
ありし日の「オガさん」こと小笠原博さんを囲む写真。左が「ハル」こと田中春助さん、右が妻の千明さん。田中さんは中国地方を代表する尾道高校のラグビー部監督をつとめる。小笠原さんは笑っている



 オガとハル。

 童話ではない。ラグビーである。オガは小笠原博。この国の楕円球界における伝説のロックである。8月26日、永遠の眠りについた。

 ハルは田中春助。名は「しゅんすけ」だが、みなハルと呼ぶ。全国4強(2014年度・花園)の尾道高校ラグビー部の監督であり、英語の教員である。

 年齢は79と34。開きは実に45年。その差を感じさせない結びつきがあった。若者が「オガさん」と呼ぶことを許していた。

 オガが初めて、臨時コーチとして、この広島にある高校を訪れたのは15年前だった。
「練習は地獄絵図でした」
 当時、コーチだったハルは思い出す。高校生たちは地面に倒れ込んで動けなかった。

 タックルを受けて倒れる。ボールが地面につくかいなかで追走者が拾い上げる。ボールが少しでも浮いたら、「アゲイン」。片道50メートル続く練習は、全員がやり直しになる。
「ボールが浮いたら、こぼれます」
 ハルはミスの可能性を指摘する。オガは後ろにつなぐことの大切さを叩き込んだ。

 当たり、2人目がパクり、3人目がそのボールを持って前に出る、いわゆる「リップ・ガット」もやった。姿勢が高かったり、絡まれたら即アゲイン。みんなやり直し。

「究極の寄り、なんですよね。絡まれるのを避ける中で自然に体は低くなります」
 オガはラグビーにおいて一番効率的なタテ突破を高校生に植え付ける。ボールを後ろに下げることはない。その年から、冬の全国大会出場は15年連続となっている。

 オガは現役時代、桜のジャージーをまとい、ボール争奪の最前線にいた。185センチ、95キロの体で激突を繰り返し、時には額から血を滴らせる。ジュニア・オールブラックスを23−19で破ったのは1968年。秩父宮でイングランドを3−6と追い詰めたのはその3年後である。

 54年前のジュニアはニュージーランド代表の下に位置した。そのチームから、オガを軸にした勝利は日本ラグビーを世界に知らしめる。そのあたりは藤島大の『信念の巨木』が詳しい。ラグビー戦後70年史(ベースボール・マガジン社)に収録されている。

 藤島が訊く。
 殴らなかった試合はありますか?
「ない」
 即答する。半世紀前の試合は野蛮だった。そういうスポーツだった。

 得た日本代表キャップは24。ただ、この時代は国際試合そのものが少ない。ワールドカップがある今の時代、オガが現役なら、大野均が持つ最多キャップ記録の98を塗り替えていた可能性も考えられる。

 オガは常に試合で出し尽くした。藤島はその逸話にも触れる。1975年、国立でのウェールズ戦。6−82と大敗を喫した。試合後の交歓の宴会、オガは疲労で立てなくなり、金屏風の裏で横になる。介抱にあたったのは世界的なフルバックだったJPR・ウィリアムズ。医師でもあったウィリアムズは、濃度を示した塩水を持ってこさせ、飲ませた。

 ウィリアムズは尋ねた。
「おまえ、なんでそこまでやるんだ?」
 それがオガの流儀だった。負けようが、点差がつこうが、最後まで全力で戦う。オールアウト。それは指導現場でも生きていた。

 地獄絵図はそのためだった。
「練習はきっかり1時間30分で終わりました」
 ハルは振り返る。高校生はハーフ30分、すべてその時間に納まっている。その後、酒席でのラグビー談義も禁じた。
「さっき、もう十分やっただろ」
 鮮やかな切り替えだった。

 ハルはそんなオガに心酔する。5年前、新婚旅行はオガの元へ向かう。鹿児島の屋久島だった。
「学校やクラブがあって、2人で一緒にとれる休みは3日でした」
 新婦の千明は養護教員。この学校で出会った。オガは高速艇の波止場まで出向く。
「手を挙げて迎えてくれました」
 ハルはその心をつかんでいた。

 オガは屋久島が終の棲家になる。近鉄で現役引退のあと、神戸を本拠地にした社会人のワールドで監督をつとめた。教え子が指導する大学、立命館や拓殖のコーチもした。出身は青森の弘前。習志野から関西を経由して、気に入った南西の島に移った。北から南下する。人生の旅は遠距離だった。

 オガは観光先やお店を教えた。
「行くのは屋久杉まででいい。縄文杉まで行っても、もの自体はそんなに変わらん」
 新郎新婦に労力を使わせなかった。
「ここ、あそこ、と言われた店に行きました。勘定はすべて払われていました。オガさんが先に手を回してくれていました」
 家の中には入手が難しい「愛子」、屋久島の芋焼酎がずらっと並んでいた。ここでもオガの人望を垣間見る。

 訃報を聞いた時、ハルは最後のお別れをしに行きたくなった。ただ、学校やチームがある。弔電とお供えする花を送った。
「お花は4つくらいグレードがありました。一番上を出そうとしたら、花屋さんに、それを出す人はいません、と言われました」
 オガへの感謝があるのみだった。

 ハルの教える尾道は高校ラグビーの名門への道を歩んでいる。前任の梅本勝から引き継いだチームの花園出場は16回を数える。

 この秋、県予選、そしてそれに次ぐ本大会は、監督4年目のハルにとって、供養という別の動機付けが入ってくる。オガという大選手の若い語り部としても、恩返しのシーズンを実現したい。


PICK UP