コラム 2022.08.30

【コラム】ナタリアさん、戦禍のリヴィウから静岡へ。

[ 成見宏樹 ]
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【コラム】ナタリアさん、戦禍のリヴィウから静岡へ。
8月13日に入国、手続きのため5日間ほど東京・汐留のホテルに滞在した(撮影:桜井ひとし)

「日本は文化的にとても興味深い国。国代表もすごくいいラグビーをしている。機会があれば、ぜひそこに加わってみたいと思いました。選手としての時間を充実させたい」

 来日の経緯を聞かれ、答える声の主はナタリア・コザチュクさん。ウクライナから避難民として入国したラグビー選手だ。写真撮影の合間、小指を効かせたスピンパスの動きが止まると、にこやかに笑っていた頬が一瞬固まった。

「ただ、ここへ来た第一の理由は、自分の国では競技生活が成り立たなくなったからです」

24歳。ウクライナ・リヴィウ生まれ(撮影:桜井ひとし)

 8月13日に入国、東京に滞在して手続きを済ませ、8月19日に静岡入り、静岡のアザレアセブン(女子の7人制チーム)に加入する。ナタリアさんはウクライナ西部のリヴィウに住み、プレーするクラブ(RC Levytsi)で、中学生チームのコーチを仕事としていた。

 今回の移籍来日は、アザレアセブンが海外関係者を通じてウクライナで選手を募集(チーム強化と人道支援を目的に希望者を募った)、ナタリアさん自身の応募によって成立した。ナタリアさんはウクライナ避難民ビザで入国、避難民特例の1年間の就労ビザが下りる。しばらくは就職先を探しながらプレーすることになる。

「日本に来るまでも来てからも、日本の方々には優しく親切にしていただいています。いろいろな方の励ましにも感謝しています」

 ナタリアさんの故郷はリヴィウ。ウクライナ西部の人口70万都市で、戦争が始まってからは、国内から多くの避難民がやってくる街になった。今も現地には、一緒に暮らしてきた母・タチアナさん、姉・カテリナさんと甥がいる。

 リヴィウはロシア国境とは逆サイドの西端に位置する。国内から国外に逃れる人、そこに留まる人、状況を見てまた故郷へUターンする人が交錯し、さらに国外からの支援を受け入れる玄関口の役割も果たしている。東部、南部の都市が攻撃を受ける中で、ウクライナの内外をつなぐハブとなった。一時は人口が倍になるほどの人であふれた。

「戦争が始まって、それまでの生活は一変しました。同じ国内の都市が壊されている中で、明日は仕事があるのか、そもそも働くべきなのか。逃げなくて大丈夫か。他の何かをするべきなのか。日々、一人ひとりが考えさせられるようでした」

 3月。ナタリアさんは混乱の中で、自分の街へと逃れてくる人たちのコールセンター役を買って出た。他の都市から来て一時的に身を寄せる場所は。病院は。行政の手当てを受けるには。自分のスマートフォンで多くの人のガイドをしてきた。

 プレーしていたラグビーのメンバーは定期的に集まって、兵士たちを守るためのカモフラージュシートを、みんなで手作りした。

「ウクライナ人全体の生活が変わりました。次に何が起きるかわかりません。正しいことをしよう、と考えて。目の前のことをやる」

 5月。日本に渡って選手としての生活を再開することに決めたのは、戦況が悪化したからだ。次、攻撃を受けるのはリヴィウかもしれない。そんな情報が飛び交った。リヴィウは武器を含む海外からの支援物資の経由ポイントでもある。危機感が高まった。

「より状況が悪くなった時、選択肢は二つだけです。国のために戦うか、自分の人生を生きるために避難するか。私は選びました」

 家族のいる国土に残って軍に加わる選択肢もあった。チームメートの何人かは今、軍に所属しているという。「そこで働く意志と、役目を果たせる体を持ち合わせていれば、女性も入ることはできます」

 ナタリアさんは、家族と離れてラグビー選手のキャリアを生きることに決めた。

 ラグビーを始めたのは17歳だった。友人の友人がプレーヤーだったので、「女子がプレーする場はあるのかな」と聞いてみた。それまでアイスホッケーをしていた。ポジションは、ゴールキーパーだった。

「GKって、あんまり接触プレーがないんです。私はコンタクトがしたくて、ラグビーを始めたので」

 コリジョンは望むところだった。ポジションはプロップ、1番でも3番でも組める。競技開始から3年、代表候補にピックアップされると間もなく代表ジャージーを着るようになった。代表選手としてキャリアを積むが、女子選手はプロとして生活していくのは難しい。多くの選手は学生として勉強しながら、または、他に職業を持ちながら選手生活を続けていた。ナタリアさんはリヴィウ州立体育大(Liviv State University of Physical Culture)で大学院まで進み、指導者資格を取得。地元クラブでプレーしながら、そこに通う子どもたちを指導していた。

「大学院まで修めないと学歴として弱い、院まで勉強しろって、家族に結構言われました(笑)。自分で体を動かすのも好きだし、スポーツの文化や身体面について学ぶのはとても興味深かった」

本国では子供たちにラグビーを教え、プレーしていた

 週に4日の練習で男女の小中学生(U14)をコーチしていた。彼ら彼女らの生活も一変してしまった。

「子どもの数が減りました。それぞれの家庭にもいろんな決断があったと思います。逃げるか、留まるか。残った子のお家にもいろんな事情が出てきます。前のように練習はできなくなった」

 伸び盛りの年代だ。季節を一つ越えると、表情、体やら心やらが、見違えるように大きくなるのを見守ってきた。トップ選手として自分の練習はストップしてきたナタリアさん、実は、子らの練習は週に1回だけ続けてきた。人数の多少に関わらず。それは、自分のラグビーとは少し違うもののように思えた。

「いろんな不安がある生活の中で、ボールを追いかけている間は違う世界に生きられる。あの子たちには必要なものだったと思っています。私自身もその場にいる間は違う気持ちになれた」

 8月。ラグビーで、生きるために日本にやってきた。

「今、日本語を勉強しています。腰を据えてプレーしたい。難しい選択だったけれど、日本に来ることに決めました。私の決断は、ラグビー選手としてのキャリアとして生きていくこと」

 撮影の合間、英語通訳の女性とパス交換が始まった。口調が一瞬でフランクになった。

「うまい! そうだね、ボールを離す時にもっと手を伸ばすと、シュッと飛んでいくよ」

 今は今を生きる。選手として走り切った頃、故郷の子らがまたあのフィールドに戻ってきますよう。

PROFILE
Nataliya Kozachuk/1997年9月7日生まれ、24歳。ウクライナ・リヴィウ生まれ/1番も3番もこなすPR。身長171cm。アザレアセブン所属予定。前所属はRC Levytsi。ウクライナ代表(キャップ不明)。家族は母・タチアナさん、姉・カテリナさん。

◎ナタリアさんへの支援などに興味のある方は、下記までメールにて。
(一社)アザレア・スポーツクラブ・馬場靖 baba@littletiger.co.jp

パンデミックに続く戦禍。選手生活はままならない日々が続いた
アザレアでは精力的にプレー。早くも秋の試合から起用される可能性もある(撮影:桜井ひとし)
【筆者プロフィール】成見宏樹( なるみ・ひろき )
1972年生まれ。筑波大学体育専門学群卒業後、1995年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務、週刊サッカーマガジン編集部勤務、ラグビーマガジン編集部勤務(8年ぶり2回目)、ソフトテニスマガジン編集長を経て、2017年からラグビーマガジン編集部(5年ぶり3回目)、編集次長。

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