出場しないラストマッチの2日前、ヒーナン ダニエルは「闘争心こそが私」と語った。
自身が出場しない決勝戦の2日前、オンラインでインタビューに応じた。直前にけがをしていた。
ヒーナン ダニエル。埼玉パナソニックワイルドナイツにいた40歳だ。
仲間たちは5月29日、頂点に立つ。東京・国立競技場での国内リーグワン決勝で、東京サントリーサンゴリアスを18-12で下す。ヒーナンは、そのシーズン限りでスパイクを脱いだ。
正式にリタイアを明かす前、ワイルドナイツの変遷について淡々と述べた。
「私が来日した時よりも、環境はよりプロフェッショナルなものに変わりました。ただ、チームが大事にする文化、価値は昔から変わらない。それを支えてきた人たちがいて、こんにちのチームがあります」
ラストシーズンの公式サイズは「身長196センチ、体重111キロ」。鋼の巨体で躊躇なくぶつかるLOだった。
オーストラリア代表2キャップ(代表戦出場数)の実績をひっさげ、2007年に来日した。三洋電機ワイルドナイツ、パナソニックワイルドナイツと名を変える通称「野武士軍団」の一角として、旧トップリーグでは通算5度の優勝に加え、6度のベストフィフティーン選出を果たした。
「最初に来た時は、ここまで日本に長くいるとは思いませんでした。ところが、この地ではそれまでにないくらいエンジョイできた。だからこそずっと残りたいと思いましたし、離れる理由は全くありませんでした。そう思い続け、いまに至ります」
ワイルドナイツへの愛、日本への愛は、確かな形になった。加入当初は「ダニエル・ヒーナン」だった登録名は、2014年に現在のヒーナン ダニエルとなった。ヒーナンは日本国籍を得て、日本代表入りを目指すようになった。
ルール上、ひとつのユニオンで代表キャップを得た選手が他国でキャップを得ることはきわめて難しい。ただし、別な国籍を取ってその地の7人制代表となり、オリンピック予選にあたる世界大会へ4回、出れば、門戸を開ける。
当時の日本代表は、ワールドカップ・イングランド大会を直前に控えていた。
指揮官はエディー・ジョーンズ。ヒーナンが選ばれた頃のオーストラリア代表でヘッドコーチだったジョーンズは、かつての教え子を日本代表の切り札にと考えた。ラブコールを送り、本人も首を縦に振った。
ジョーンズ率いる日本代表は、結局、イングランド大会のプールステージ初戦で南アフリカ代表を破る。その頃までに2度も世界一となった強豪を、大会通算1勝の島国が倒したのだ。
その歴史的な一戦に、ヒーナンは、出ていなかった。
代表資格を得る過程で、故障を負ったためだ。
「2015年は日本代表にとっても素晴らしい年にして、その後も進化し続ける日本代表のことは誇らしく思います。あの時、私もジャパンに入りたい気持ちがあったので、そうなれなかったのは残念。ただ、けがをしてしまっては仕方がありません」
タフなプレーぶりは、敵も、自らも痛めつけていた。キャリアを重ねるなか、通常練習の一部をスキップして試合に臨むこともあった。裏を返せば、どんなコンディションでも本番では満額回答を示しにかかった。信頼された。
リーグワン元年の序盤戦は、控えに回ることが増えた。もっともその時期にも、ある意味で長年の主力格にふさわしい役目を託されていた。
新たな本拠地となった埼玉・熊谷ラグビー場での主催試合。選手入場の際、クラブの大きなフラッグを持って先陣を切る役目だ。マスクをした大柄で長髪の男性が疾走する様は、ファンの視線を集めた。
「いまは、私の役割をチアリーダーがやってくれています。その方が見栄えがいいとは思います。…ただ、どんな形でも先頭に立って走れたことは名誉でした」
当の本人がこう笑うかたわら、2014年度就任のロビー・ディーンズ監督は賛辞を贈った。
「ヒーナンはこのチームに長い期間、多くの価値をもたらしてくれた選手です。間違いなくレジェンドと呼ばれるべき1人。私の母国のニュージーランドでも、チームの歴史を作った人がリスペクトされ、後進はその道をたどり、乗り越えていくんです」
結果的に現役最終年となったこのシーズン。ディーンズからは若手の育成を託されていた。
ヒーナンはヒーナンであり続けながら、指揮官の要望に応えようとした。
「私の性格上、チャンスがあればどんな試合にも出たい。闘争心こそが私です。ただ、より大きな視点で組織を見れば、自分の競争相手が以前よりもいいパフォーマンスができて、自分もそれに貢献できていたら嬉しいと思えます。試合に出られない時も、出られないなりの役割がある。がっかりした気持ちはぐっとこらえ、チームを応援する。ずっとそうしてきました」
果たして終盤戦の計3試合に出場。決勝戦のメンバー争いにも、最後まで絡んでいた。プロアスリートであり、チームマンだった。