国内 2022.07.22

引退の今村雄太、『サニックス ラグビーアカデミー』で新たな道へ踏み出す。

[ 編集部 ]
引退の今村雄太、『サニックス ラグビーアカデミー』で新たな道へ踏み出す。
子どもたちに好かれそうな笑顔。(撮影/松本かおり)
アカデミー体験会の模様(右から2人目が今村)。教える方も、学びの連続だ。(提供:サニックス)



 すでに新しい人生を踏み出している。
 宗像サニックスブルースでのリーグワン2022シーズンを最後に引退した今村雄太が指導者に転身した。『サニックス ラグビーアカデミー』で子どもたちにラグビーの楽しさを教える。
 ブルースは休部となったもののサニックスは、地域の小学校へのタグラグビー指導や普及などは続けていく。

 サニックス ラグビーアカデミーは9月6日に開講予定だ。すでに7月7日から体験会を開催している。
 その初回には、小学5・6年生が17名、中学生12名が参加。体験会は4回目となる7月26日(火)まで行われる。7月23日(土)の正午が申込締め切りだ。

 今村はすでに子どもたちの前に立ち、ラグビーのおもしろさを伝えている。
 自身は四日市農芸高校入学後にラグビーを始めた。力強い走りですぐに注目された。

 WTB、CTBで活躍し、早大時代は4年間のうち大学日本一に2度輝く。神戸製鋼でも実力を高め、日本代表として2007年と2011年のワールドカップ(以下、W杯)に出場した。
 日本代表キャップ39を持つ。

 現在37歳。ラストシーズンは1試合だけの出場に終わった。
 シーズン途中にブルースの休部が決定した。
「その知らせを聞いたときに、今年で終わろうと思いました。いま自分ができることを最後までやり通そう、と」
 若い選手たちに悩みがあれば相談にのった。アドバイスも。そうやってチームに貢献した。

「ここ数年は、昔と比べてパワーやスピードが落ちていることを感じてプレーしていたので、パスを受ける前に動くなど、ボールのもらい方を工夫したり、もらった後の周囲の選手の活かし方を考えていました」

 特にラストシーズンはコンディションがなかなか整わず、思うように練習もでなかった。
「これ以上やっても、満足できるレベルのプレーはできないと思ったので引退を決めました」
 トッププレーヤーとしての矜持である。

 ラグビー人生を振り返り、「満足しています」と笑顔で言う。
「ケガで休んだシーズンなど悔しい年もありましたが、そういうことを経験しながら積み上げたラグビー人生です。やり切りました」
 高校時代は坂道走で鍛えられた。あの地道な練習がなければ何も始まらなかった。

「高校からスタートし、大学、社会人、日本代表とたくさんプレーさせてもらいました。その中でいろんな人たちとの出会いに恵まれ、支えてもらいました。今度は自分がラグビーに恩返しする番だと思います」

 輝かしい実績の中で、たくさんの思い出がある。
 初めてのテストマッチは感激した。2006年4月16日、秩父宮ラグビー場でアラビアンガルフと戦った。
 初めてW杯の舞台に立った記憶も鮮明だ。2007年のフランス大会、フィジー戦で13番を背負う。31-35の熱戦の中に身を置いた。

 2度目のW杯(2011年)前は、悩んでいた時期だった。
「自信を失いかけていました。そんなとき、(W杯前の)パシフィック・ネーションズカップのフィジー戦に途中出場しました。その時にトライを取って勝ち(24-13)、チームは優勝した。ネガティブになっていたものが吹き飛んだことを覚えています」

 最後のチームとなったブルースでは3シーズンプレーした。
 神戸製鋼で戦力外通告を受けて移り住んだ宗像は、本当に居心地の良い場所だった。「ラグビーができる幸せを噛み締めながらプレーしていました」と話す。
「自分自身、ここまでラグビーに成長させてもらい、支えられてきました。これからはたくさんの若い人たちがラグビーを楽しめるようにサポートしたい。経験を伝えていきます」

 自身の原体験を思い出す。
「高校時代の練習はきつかった。でも、楽しんでやっていたことを覚えています。子どもたちにも、楽しむ感覚だけは忘れないように、と言ってあげたいですね」

 もし、自分が大舞台で活躍した話が子どもたちのモチベーションにつながるなら、伝えるのもやぶさかではない。
 ラグビーの奥の深さを少しずつ話してもいいかも。向上心の芽生えにつながったらいいな。

 人に教えることは簡単ではない。それはタグラグビーの普及に携わっているときから感じていた。
「そういう機会があるたびに勉強していました。楽しめている子ももちろんいるのですが、うまくいかない子もいる。笛を吹きながら、ああ、自分の力不足だな、と感じていました。どう伝えたらうまくいくのか、楽しめるのか、学ぶことばかりです」

 最初から他を圧倒した自分とは違い、みんなは同じようにできない。そんなギャップから始まるコーチ人生は難しい分、魅力に溢れる。
 日本代表キャップを39も持っていても、コーチとしてはキャップゼロ。まだ駆け出したばかりだ。
 相手をなぎ倒し、置き去りにしてきた豪傑は、人の手をとって導く道に入った。細い目は、さらに細くなりそうだ。

 ラグビーに出会っていなかったら「四日市でサラリーマンだったかなあ」と言う。
 楕円球と出会ったお陰で、東京に出て栄光をつかみ、神戸のスター軍団に加わり、世界を駆けた。
 戦力外通告。休部も経験した。起伏に富んだ人生だ。

「自分が宗像に住むなんて、まったく考えていませんでした。でも、ラグビーに携わっていけるいまの環境に、本当に感謝しています」

 ラグビーと出会ってよかった。
 自分と同じように、将来そう思う子どもたちを、一人でも多く育てる。

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