コラム 2022.07.13

【コラム】100までの歩み。

[ 明石尚之 ]
【コラム】100までの歩み。
父・ファビオさんがイタリアのラクイラ・ラグビー(伊藤宏明・現明大HCも所属した)でプレーしていたこともあり、イタリア代表を目指すよう提案を受けたこともあった(撮影:松本かおり)

 100試合出場。
 最多試合出場。
 ラグビーにおいては、いずれも鉄人の証、レジェンドの証だ。

 ただ、偉業を成し遂げた人たちは一様に、それはあくまで積み重ねであって、特別意識してこなかったと言う。目の前の一戦一戦に集中してきた結果だと言うのだ。

 トップリーグで最多の173試合に出場した山村亮さん、日本代表最多キャッパーで98キャップを持つ大野均さんもそうだった。
 そして、この人も例外ではなかった。

 7月10日。ウルグアイ代表のディエゴ・マニョが、南米初の代表100キャップに到達した。
 ホーム、モンテビデオでルーマニア代表と対戦。22-30で敗れるも、ロス・テロスにとって歴史的な1日を迎えていた。

 100キャップオーバーの選手は世界で80人ほど。ウルグアイ代表ではそれまでの最多キャッパー、ロドリゴ・サンチェスが「68」キャップだったことを踏まえれば、いかにマニョが偉大か分かる。

 そのマニョが先日、サンパウロとニューヨークを経由しながら、44時間ほどかけて来日していた。日本ツアーの間、幸運なことに2度の取材機会に恵まれた。

 来日してから数日経った練習後の囲み取材でマニョは言った。
「あと数試合で100キャップというところまで来ていることを嬉しく思います。ですが、1試合1試合がタフです。あまり今後のことは考えず、目の前の試合に全力で臨みます」

 そして日本代表を相手に2試合戦い、3桁まであと1と迫る。北九州で語ったのは感謝、また感謝だった。
「ここまで戦ってこれたことを誇りに思うし、責任も感じます。自分のことを信頼してくれて、このチームで自分を成熟させてくれたスタッフに感謝したい。自分は長年に渡って、見えないところで一生懸命に努力を重ねてきました。それを支えてくれた妻や家族にも感謝したいです」

 初キャップから14年。マニョが歩んだ100試合出場までの道のりは、そのままウルグアイ代表の歴史を表している。

 マニョは2008年6月に、19歳の若さでテストデビューを飾った。
 欧州ツアー中に負傷した選手に代わり急遽、招集され、ウルグアイから単身、ルーマニアの首都・ブカレストへ向かった。そのまま背番号19のジャージーを渡され、ロシア戦に出場、チームも23-19で勝った。

 翌年には日本開催のU20世界選手権に出場するため初来日。15位決定戦では日本代表とも対戦していた(トライも奪った)。

 マニョは初キャップ獲得以来、ほぼすべてのテストマッチに出場している。「ほんの少し、ゲームを逃しただけ」(World Rugby)だったという。

 チームに帯同できなかったのは、骨折と大学の試験を受けるために欠場した2試合のみ。スコッドに入っていたけど出場できなかったのは、2019年のワールドカップ(以下、W杯)出場を決めたカナダ戦だけだったそうだ。

 ウルグアイ代表はひと昔前までアマチュア選手がほとんどだった。当然、選手へのサポートも十分ではなかった。
 サッカースタジアムがパフォーマンス向上のための強化施設「セントロ・チャルーア」として生まれ変わったのが2012年。それから徐々にソフト面の環境整備も進んでいった。

 2015年のW杯後には、アルゼンチン人のエステバン・メネセス監督を招へい。メネセス監督のもと、マニョはバックローから勤勉なLOとして起用されるようになった。翌年にはアメリカを破る歴史的勝利を挙げていた(29-25)。

 さらに’18年にはウルグアイ協会が、マニョを含む15人のプレイヤーと最初のプロ契約を結ぶ。マニョは‘19年にアメリカ、メジャーリーグ・ラグビーのヒューストン・セイバーキャッツに加入。勤めていたソフトウェア会社を辞め、3シーズンに渡りプレーした。

 そして’19年。日本開催のW杯である。すべては釜石の地でフィジーを破る大金星につながっていた。

 驚きはW杯を終えて、さらに進化を加速させていたことだ。
 W杯後に設立された南米版スーパーラグビー「スーペルリーガ」に出場するペニャロールに、代表選手の多くがプロ契約を結んだ。かつてのアルゼンチン代表とハグアレスの関係と似たような強化体制を構築できた。

 マニョもこの4月に生まれた息子と妻と暮らすために帰国し、今季から同クラブに移籍。ペニャロールは今季、スーペルリーガで初優勝を飾った。
 時を前後してウルグアイ代表は昨年、初めてアメリカ地区1位でW杯出場資格を獲得する。強化策は着実な成果を挙げているのだ。
「リーグだけでいえば6か月、代表期間も含めれば1年中ずっと一緒にいます。たくさんの時間をともに過ごし、トレーニングができている。そこがウルグアイの強みで、これまでの代表とまったく違います」

 日本ツアーでは、このペニャロール所属の選手が26人中23人を占めた。さらに12人が1キャップ以下、8人が22歳以下という若い編成だった(若手のほとんどが大学に通いながら、プロ選手として活動している)。

 33歳になったマニョには204㌢の大型LO、マヌエル・レインデッカー(25歳)らライバルも多い。だが若手が台頭するなかでも、代表チームでやるべきことは変わらないという。

「もっとも重要なことはこの代表チームの中で自らのポジションを獲得することです。なにも経験があるからといって、試合に出られることが保証されているわけではありません。毎週、自分のポジションを獲得するために取り組むその姿勢こそが、若手へのメッセージになると思っています」

 先日の宮崎合宿で、日本代表のリーチ マイケルも似たようなことを言っていた。
「経験だけで(日本代表に)いるのは良くない。いいメンバーがいるので、その中で出場機会を勝ち取って、出たい。もし出られなかったとしたら、チームに良い影響を与えられるようにします」

 マニョは続ける。
「これまでさまざまな場所、シチュエーションでこのウルグアイという国を代表して戦ってきました。その姿も若手にとっては手本にしてもらえるところだと思っています。代表ではハードに努力を続けていかなければいけない(生き残れない)ということを分かってくれているのではないでしょうか」

 日本ツアーは2015年の2戦に続いて連敗したが(15-34、7-43)、2023年フランス大会でのグループステージ2勝の目標はぶれない。本大会にはレインデッカー含め欧州でプレーする選手やケガでこのツアーに参加していないメンバー10人弱が加わる。マニョの語気が強くなった。
「勝てる相手がいると思っています」

 年長者の言葉は日本でもウルグアイでも真っ直ぐだ。だから心に残る。

日本とは過去4度対戦。U20を入れれば5度(撮影:松本かおり)

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