【コラム】水を運ぶ人
先日。東京・国立の一橋大学グラウンドで東京都国公立大会2回戦を取材した。感染防止対策の体調管理シートを受付の机で待つ係は、これから公式戦に臨むフロントローである。給水はもちろん現役部員の仕事。おのおののベンチのテント、控え選手、ひとりかふたりの監督やコーチ、黙々と誠実に大会を進める協会役員、大きな腹で、どうして俊敏に動き、柔らかく的確な笛を吹いたレフェリー。実に簡素だ。そして、よきラグビーはそれで成立する。
簡潔への回帰は退歩とは違う。なにもスキルや体力強化の方法を後退させようというわけではない。いまの環境にあっても、そこにいる選手みずからが、「給水コーチ」なんかに干渉されることなく、刻々と変化する状況における判断や統率を遂行する。これは人類の進歩ではあるまいか。
スタッフのピッチ侵入のタイミングを規制するニュースに接して、大昔、たぶん32年くらい前の固定電話の会話を反射的に思い出した。知人のコーチがニュージーランドで修業、帰国した。筆者は当時、スポーツ新聞社に勤めながら、余暇のすべてを都立高校の指導に費やしていた。本場の情報を教えてもらおうと受話器越しに聞いた。
「スクラム起点で、幅広いラインにFBが後方から参加してきたら、どういうふうに止めていた?」。答えを忘れない。「ニュージーランドはシンプルなんだよ。7番(オープンサイドのフランカー)が必死で走れば追いつくって」。
そういうことなのだといまでも思う。わずかなエリートのクラブ、自主性も判断力も身につけたトップ級で編成される集団を除外すれば、およそ大半のチームにとって勝負を決めるのは、いわゆる「システム」の手前のところだ。ひとりひとりが自身の意思や意欲に従って、走り抜き、倒し切り、楽しみ切る。そんな15人がそろったら簡単には負けない。
コーチング不要論ではまったくない。大枠を定め、到達の像から逆算して強化計画を打ち立て、クラブの文化を構築するためには「長く生きてきた者」の指導は欠かせない。そのことは、給水ボトルを携えるコーチに無線で逐一指示を与える行為とは重ならない。
反則の笛が鳴る。狙うか攻めるか。14人がキャプテンを見る。15人が「水を運ぶ人」に目をやる。どちらのチームを好きになるだろうか。