【ラグリパWest】大阪外語の末裔たち。
小松節夫は天理のラグビーを初の学生日本一に導いた。名監督の系譜に連なるその59歳は2度、話したことがある。
「1日だけの定期戦なんていうのもいいと思う。大変お世話になったから」
恩義が向かう先は大阪外国語学校である。
小松の大先輩たちは通称「大阪外語」に鍛えられた。
<天理外語のラグビー部が誕生して、その最初の対外試合が、ラグビーでの先輩にあたる、わが大阪外語の「胸を借りて」、行われた。1926年2月11日はいわば天理大ラグビー部の誕生日である>
昨年11月に発刊された大阪外語の部史にそのあたりは詳しい。天理の大学は外国語学校をその祖にしている。
官立(国立)である大阪外語の創立は1921年(大正10)。創部は翌年だ。同じ外語の誼(よしみ)から天理の街に遠征。旧制中学を6−0、外国語学校を15−0と連破した。
<満場の期待を集めたる天理軍>
書き込みが残る。のちに高校と大学になる天理の創部はともに遠征前年。外語2校は戦後の1949年、新制大学の天理と大阪外国語に変わった。その定期戦は中断こそあったものの1960年まで続けられた。ここで途切れたのは翌年、関西の大学ラグビーがリーグ戦化され、天理は一部のA、大阪外国語はCに回り、力の差がついたためだと思われる。
天理の大学がなぜ外語から始まったのかを小松は端的に語る。
「布教のためやね」
天理教は江戸末期に成立した。この教派神道は、「陽気ぐらし」を芯に、「感謝、慎み、たすけあい」をスローガンにする。その教義を海外に広めるための語学だった。今では海外80か国、信者は200万人超えとされている。
小松は昔を大切にする。現在は過去の積み重ねということを知っている。大阪外語の助力があったからこそ、2季前の57回大学選手権における初の頂点がある。最多16回優勝の早稲田に55−28。その恩返しの思いが、「1日だけの定期戦」という言葉になった。
その伝統ある大阪外語はすでにない。
正しくは「統合」された。大阪外国語大は2007年、大阪大に吸収される。外国語学部となった。その後も、ラグビー部は体育会と外国語学部の2つが存在したが、昨年4月、体育会に合流した。大阪外語からの歴史はOB会が編纂した、『大阪外国語大学・大阪大学外国部学部ラグビー部 部史』に残る。チームが存在すれば今年、創部100周年だった。
「グラウンドが使えなくなったこと。部員が4人になってしまったことが要因です」
池田誠悟は合流理由を話す。OBであり、外国語学部ラグビー部の最後の監督である。学部のあった箕面(みのお)のキャンパスが閉鎖され、千里中央にその機能は集約された。活動場所は主に吹田(すいた)のキャンパスにある人工芝グラウンドに移った。