【コラム】強いクボタの「当たり前」を作った人たち。ゴッちゃん、コーチとして次章へ
クボタは’21シーズン、クラブ史上初めて4強に入る躍進を見せた。10年ちょっと前には下部リーグへの降格も経験し、中位でもがき、ようやく花咲く過程を迎えている。この浮き沈みの激しい時代、変わってきたクボタの道のりに、後藤の社会人選手としての期間が重なっている。
後藤は2008年に入社、京産大では主将も務めたアグレッシブな選手だ。しかし、卒業の頃、将来のラグビーへの意欲は決して高くなかったという。
「正直に言うと、そんなに長くプレーするつもりはありませんでした。3、4年いて、その後は仕事の生活になるのかなと。実はずっと、なんやこのスポーツ、と思っていました。しんどいし、痛いし、社会人になってまで…と」
選手生活は結局13年に及んだ。
「後悔したくなかったから、やめてくれと言われるまで続けると決めていました。こんなにも自分から熱くなれて、目の前のことに集中できることってないと思えていたので」
後藤を変えた大きな転機は、4年目の2011年にアキレス腱を切ったことだった。「嫌いだったマルチ(フィットネステスト)で自己最高更新。その直後のスクラムで切りました」。長い長い一人のリハビリ。窓の外の仲間たちの姿がまぶしく見えた。
「あんなにみんなで楽しそうに、しんどそうにやっているのを見て。俺も、ラグビーもっとうまくなりたいと思った。あの時の感情は、初めてだったんですよ。高校でラグビー始めて、初めてそんなふうに思った」
どうやったらうまくなるのか、強くなれるのか、情報を漁った。ネット動画は宝庫だった。チームの資料動画はもちろん、その興味のままに動画サイトの世界を飛び回る。選手時代からおそらく、チームの誰よりもラグビーを見ている。「他チームの動画もよく見ました。背景に映っている設備を見て、どんな環境でやってるんだろうとか、発見がある」。
高まる意欲とは裏腹に、ケガは絶えなかった。2013年、今度は反対側のアキレス腱を切った。
「自分の場合は、それでよかった。二度のケガがなかったら、ここまでラグビーを好きになれていない。休みの日は家で寝てた自分が、グラウンド出てきて動くのが当たり前になった」
しかしケガがなくてもHOのポジション争いは熾烈だった。先輩には荻原要、後輩には明大で3列のエースだった杉本博昭ら。2020年シーズンには、ワールドカップ優勝の看板を引っ提げた南アフリカ代表、マルコム・マークスが降り立った。
平然と努力を続けてこられたのには、振り返れば二つ支えがあった。