タックルマン石塚武生の青春日記⑫
日本選手権の近鉄戦。
『勝ちます』、『タックルします』。
『世界のサカタ』の引退試合。
握手を求め、涙をこらえて胸を張る。
1975(昭和50)年は、時代の節目だった。
この年、盛岡駅から上野駅まで、夢と希望と郷愁を抱いた若者を運んできた『集団就職列車』が終了した。日本の高度経済成長も終わりを迎えることになった。
海外では、サイゴン陥落により、ベトナム戦争が終結した。戦死者は4万7千人を超えたのだった。
その年の1月15日の成人の日、石塚武生キャプテン率いる学生王者の早大は、日本選手権で、社会人覇者の近鉄に挑んだ。
国立競技場は史上最多の6万人余で埋まった。「世界のサカタ」といわれた近鉄WTB、当時32歳の坂田好弘さんの最後の舞台。その後継者となる早大WTB、当時21歳の〝アニマル〟藤原優さんとは新旧対決とも騒がれた。
早大ラグビー部員は試合の日の朝、東伏見のラグビー寮から歩いて15分、東伏見稲荷神社に参拝することを伝統としていた。石塚さんは、古びたラグビーノートにこう、薄れた黒字で書いている。
〈すばらしい快晴である。いよいよ近鉄と日本一をかけて戦う。
朝、みんなで東伏見稲荷に参った。僕は、〝勝ちます〟と〝タックルします〟と自分自身に言い聞かせるように小さい声を出した。
大学選手権決勝の緊張感とはひと味ちがったものである。絶対、勝たなければいけないというプレッシャーから、今度は学生としての若さと持てる力を最大に出し切って戦うことへのチャレンジ、相手にスキあらば勝ってやる、そういった挑みかかる緊張感である。
寮を出る前、キャプテンとして、チームメイトにひと言だけ言った。〝みんな、思い切ってやろう〟と。〝ヨシッ〟という声が返ってきた〉
当時は、国立の試合でも、東伏見駅から西武新宿線を使って、電車で西武新宿駅まで出た。そこからタクシーで国立競技場へ。
石塚さんはこう、続けている。
〈それから、東伏見から国立競技場の控室まで、みんな無言である。ただジッと外の風景を見つめている。手に汗を握っている。気持ちがたかぶってくる。
控室では、人それぞれだ。キックオフに集中させることをやっている。また、落ち着こうといろんなしぐさをする。
キックオフまでの時間がやけに長く感じる。10分前、みんなで部歌を歌う。5分前、みんなで手を握り合う。3分前、グラウンドへの通路で待つ。
いざ、出陣! 国立競技場は、人でいっぱいである。男として、これほどの舞台はないだろう。〉
キックオフ。
早大のFWの平均体重は、近鉄の84キロより劣る74キロ、10キロも軽かった。近鉄FWの押しを軽量FWが耐える。早大は近鉄の分厚い突進を必死のタックルでしのぎ、バックスがスピード豊かな左右の展開でゆさぶった。前半はそれぞれ2PGを決めて6-6。
早大は後半早々、FBの植山信幸さんが右隅に飛び込んで10-6とリードする。近鉄からPGとトライを返され、10-13と逆転された。ここで、アクシデント。肉離れを起こしていた藤原さんが再び太ももを痛め、とうとう退場した。
早大はFW戦でじりじりと圧倒されはじめ、点差をひろげられていく。石塚さんの懸命のタックルも近鉄の攻めを防ぐことはできなかった。終了直前には、近鉄の坂田さんにインターセプトからとどめのトライを奪われた。
ノーサイド。早大は13-33で近鉄に敗れた。石塚さんはラグビーノートにこう記した。
〈負けた。でも、みんな、ほんとうによく戦ってくれた。試合中、涙を流している選手を見て、ボクは肩をたたいた。持てる力は出し切った。悔いはなかった。でも、くやしい、くやしかった。くやしかったのだ〉
そうか。これが、筆者が深く尊敬する坂田さんの引退試合となったのか。
坂田さんは日本代表選手として輝かしい実績を残し、ラグビー殿堂入りを果たされている。大体大ラグビー部の監督を長くされたほか、関西ラグビー協会会長も務められた。
ピュアな方だ、情熱の人だ。ラグビースピリットのかたまりのような方である。
筆者は30年以上も前から世話になっている。ただいま、79歳。11月の金曜日の朝、携帯に電話をかけた。呼び出し音が6回鳴った。いないか。いや、出てくれた。
坂田さんのいつもの明るい声だった。
「おはよ〜。久しぶりだね。元気そうで」
石塚さんの早大キャプテンの時の日本選手権、いや、坂田さんご自身の最後の試合をおぼえていますか。そう聞くと、「覚えているよ」と即答だった。
「覚えています、覚えています。あの試合のビデオも残っているから。最後の最後にトライをしたのを覚えている。終わって、石塚と握手をしたのも、かすかに覚えているよ」
最後のトライは。
「自分でこの試合を最後にしようと決めていたので、最後にボールを持って終わりたいなとずっと考えていたんだ。ボールを持たせてくれ、パスをしてくれって。パス、こい、こいって。でも、なかなか、ボールがこなくてね」
試合終了が近づいてくる。敵陣の22メートルあたり。早大が逆襲をしかけたときだった。パスが乱れた。坂田さんがそのボールを捕った。インターセプトだ。
「近鉄の選手からでなく、ワセダの選手からボールがくるなんて。不思議が気がした。ラグビーというのは、そういう神様がいるのかなって。願えば叶うというか、一生懸命、本気で願っていたら、インターセプトできたんだ」
坂田さんは左隅に飛び込んだ。引退の花道を飾るトライ、日本一の有終の美だった。
「最後、ボールを持っている時、石塚が戻ってきていた。たしか、写真にも写っていた」
石塚さんのプレーの印象はありますか。
「言われている通り、タックルがすごかったね。やっぱり、どういうのか、狙ったら、仕留めるまでいくという感じだった。相手の体がでかかろうが、ちっちゃい体でずっと追い込んでとどめを刺す感じだった。とにかく、グラウンドで雰囲気があった。なんか、印象に残る選手だったね。雰囲気は今でも思い出すわ」
坂田さんは、試合後、石塚さんから握手を求められた。
「たぶん、石塚は両手で握手をしたと思うよ。おれの右手を両手で持って。そんなことがあったような気がする。それが彼の人間性だったのだと思う」
表彰式。
石塚さんは涙をこらえ、目をつむり、そして胸を張った。ラグビーノートにこうも、書いている。
〈ボクはみんなに堂々と胸を張ってくれることを頼んだ。でも、みんな、顔を落とし、泣きながら、息を詰まらせていた。ボクは、準優勝の表彰状をもらう時、一生懸命、胸を張り、唇をかみしめていたのだった。
近鉄選手ひとりひとりと握手をした。〝ありがとうございました〟と言いながら。時々、考えても見なかったことをしてしまう。勝利の部歌、〝荒ぶる〟は歌えなかったが、それ以上に価値のある経験は残るだろう。〉
再び、坂田さん。
当時は選手がグラウンドで感情を表に出すケースは少なかった。
坂田さんもトライのあとは淡々と元のポジションに戻るのが当然と考えていた。勝っても、喜びは爆発させない。引退試合に付きものの胴上げもなかった。
ただ、ロッカールームに戻って、ジャージを脱ぐと、込み上げてくる感情を抑えきれなかったそうだ。坂田さんは言った。
「ジャージを脱いだ瞬間、自分の体って、こんなに軽いんか、ジャージって、こんな重いんかって思ったんだ。ラストゲーム。ジャージの重さを感じた試合だったね」
坂田さんは京都に住んでいる。近くの下賀茂神社周りや嵐山など、紅葉は見ごろを迎えている。最近、茶碗づくりを始めた。小さく笑った。
「陶芸家ですわ」
そういえば、と言葉を継いだ。「うちの息子から聞いたんだけど」と。
「石塚がラグビー協会で仕事をしていた時、終わりが遅くなれば協会に泊まり込んで、一生懸命に仕事をやってられたって。ジャパンの元選手で、ワセダの元キャプテンが、朝早くからそうじをされてた。全員の机の上を雑巾できれいにしてたって。そりゃ、人によっては、〝石塚さん、ナニしとんねん〟と言うかもしれないけど、そんなの気にしないで、自分のスタイルを貫いたって。偉そうなのはナシや。そんな男だったんやろ」
最後に。
石塚さんは早大卒業に向け、ラグビーノートにこう書いている。
〈いつの日からだろう。ボクが、自分の卒業してからの進路について、とことんラグビーをやってみようと考え出したのは。〉
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