コラム 2021.10.19

タックルマン石塚武生の青春日記⑥

[ 松瀬 学 ]
タックルマン石塚武生の青春日記⑥
早大時代、菅平での夏合宿中の一枚。(写真/BBM)




ウイングからフランカーへ。
人間万事塞翁が馬、
ひとつの青春のナミダ。

 タックルマンはよく、泣いた。
 1971(昭和46)年の春シーズンが、終わったころだ。早稲田大学1年、19歳の石塚武生さんは、ラグビー部のコーチと面談を行い、ポジション変更を勧められた。ウイングからフランカーだった。石塚さんは色あせたラグビーノートに黒字でこう書いている。

「ボクは春のシーズン中、ウイングとして、練習試合に出場したことはない。やはり、鈍足、技術なしでは、早大ラグビー部のウイングとしては失格だったようだ。ただ足腰の強さだけは評価が高かったのだろう、コーチからポジション転向を提案された。“はい、わかりました”とだけ答えた」

 挫折感はいかばかりだっただろうか。あるいは、悔しさは。筆者の母校の福岡・修猷館高校から早大に進学した石塚さんと同期の猪又昭さんは「陰で泣いていたんじゃないか」と口にした。いま69歳。半世紀前の同期の姿がよみがえる。
「石塚はすぐ、泣くけんね。小柄なからだは負けん気の塊よ。(ポジションが)替わった時は、悔しかったと思う。しょうがなかけどね」

 ポジション変更とは、ひそかに早大ラグビー部の強さの秘密だったかもしれない。当時、高校時代のバックスから、大学でFWにコンバートされた成功事例が多々あった。
 早大は走る練習が多いため、からだの大きなFWがすぐ辞めていく。部員数も今ほど多くはなかった。50人程度か(今年の早大ラグビー部の男子部員は135人)。石塚さんの1年時、フランカーはわずか5、6人だった。

 そこで、高校時代、無名であった選手で、スピード、パス、キックスキルがないバックスは、FWに移されることになる。石塚さんの5学年上、故・井沢義明さん(2014年没・享年67)も函館北高時代はウイングだったが、早大2年の時、フランカーに移った。
 学生時代に日本代表となり、1968(昭和43)年、日本代表がオールブラックス・ジュニアに勝利(23-19)した時には6番のフランカーで出場した。

 石塚さんのひとつ上の神山郁雄さん(現早大ラグビー部OB会長)も宇都宮高校時代は、バックスだった。早大ではフランカーとなり、2年生からレギュラーを獲得した。
 FW第3列からフロントローにコンバートされるケースも多い。筆者もまた、早大1年春シーズンのあと、ナンバー8からフロントローへの転向を命じられた口である。悪夢だった。

 石塚さんのひとつ上となる浜野政宏さんに、再び電話をかけた。卒業後、博報堂で鍛えられたからか、コトバに独特のユーモアがある。朝8時50分。「グッドタイミング。いま、NHKのラジオ体操が終わったところ。健康が一番だよ」と明るい声で言った。

「奥さんと一緒にラジオ体操、やっている。奥さんに“おはようございます。きょうもよろしく、お願いします”ってお辞儀して始めるんだ。終わったら、“ありがとうございます”って。この低姿勢、夫婦円満がいいんだ」

 浜野さんは早大1年の時、ナンバー8からフッカーにポジション変更していた。そのコンバートのことを聞けば、「万事塞翁が馬だよ」と笑い飛ばした。

 いつもうまいことを言う。この中国の故事、『人間万事塞翁が馬』とは、人生における幸不幸は予測しがたいという意味である。ポジション変更で不幸だと落ち込んでいても、アカクロ(レギュラーのジャージ)を着られれば幸福なのだった。

 浜野さんが笑って続ける。
 「ま、ポジション変更はラグビー部の事情だな。人数が少ないところへ、コーチが練習で適性を見て、システマティックに移していく。サラリーマンと一緒だよ。異動や転勤をしないといけないじゃない。大学時代、何人かのラグビー部員は自分の実力と社会の厳しさ、世の中の悲哀を知るわけだ。はっはっは。あとは本人ががんばるかどうかでしょ。だから、ワセダのラグビー部員は社会に出た時、通用するんだよ」

 わかるような気がする。要は、そこで、どうするか。ラグビー部を辞めるか、ふてくされて練習で力を抜くか。
 それとも、挫折とショックを、苦悩と鍛錬の先のアカクロへと結ぶのか。

 石塚さんは孤高のラガーマンだ。ひとりでなんでもがんばる。石塚さんの1年時、ラグビー部寮で同部屋ともなった浜野さんは、「石塚はストイックだもんね」と言った。
 「店子としては、酒はあんまり飲まないし、正直いえば、かわいくなかったよね。自分の世界に入るからさ。こう、煮詰まっちゃうんだよ。集中力がすごいんだ」

 フランカー転向後、石塚さんはラグビーノートにこう、記した。
「ヨシッ! シーズンオフに力いっぱい練習するぞ。このポジションで上を狙ってやる。フランカーでアカクロを着てやる。新しい目標に胸がふくらんできた。ガゼン、やる気になったのだ」

 1971年当時、街のあちこちから小柳ルミ子の『わたしの城下町』のメロディーが流れ、ホットパンツやパンタロン、ポロシャツが流行していた。
 日本国内初の女子プロボウラー、須田開代子や中山律子らが登場、ボウリングは社会現象となるほど人気があった。

 ビンボーな大学生は雀荘や喫茶店やパチンコ屋にたむろしていた。
 でも、長期の練習休みのオフ、石塚さんはそういった怠惰なキャンパスライフとは決別し、ひとりで厳しい自主トレーニングに打ち込んだ。

 石塚さんは自著にこう書いた。
 「僕は自宅に戻り、狛江から成城まで走り、坂道ダッシュを何往復したり、暑い中、1日2時間はからだを鍛えたりした。この年から、僕はオフに入る1カ月前から自主トレのプランを立てるのが慣例になった。ここでいう“自主トレ”とは、ひとりでやるトレーニングだ。文字通り、ひとりでやることが大切だった」(「炎のタックルマン 石塚武生」、ベースボール・マガジン社)

 石塚さんは大学の前期授業が終わると、親戚の住む伊豆下田に滞在していた。あえて一番気温が上がる炎天下の午後1時頃からトレーニングをスタートする。
 下田−弓ヶ浜の約10キロの往復ランニングから長い坂道、階段の上り下り、砂浜での1時間ジョギングと腕立て伏せ、スクワット…。

 石塚さんは続ける。
 「自分一人だけが汗を流しているんだという、精神的なものを重視していた。そして、この“精神的なもの”が、僕の身上ともいうべきタックルを生み出したのである」

 オフが終わる。その夏、恒例の長野・菅平高原での夏合宿が始まった。オフをほとんど休みなしで過ごした石塚さんは初日から持てる力を発揮した。毎日、力を出し切れば、出し切るほど、からだの底から闘志が湧きあがってくることを感じた。

 ただ、ほとんど体力の限界に近づいていたようだ。
 ラグビーノートには、「食事がのどを通らない。何とかして食べなければとお茶で流し込んだ」と書いている。

 夏合宿のOB集合日。現役対OBの試合があった。石塚さんは初めてフランカーとして試合に出場した。トイメンは、あの井沢さんだった。
 「何とも言えない気持ちだった。ガムシャラにタックルした。力を振り絞ったという満足感しか残らなかった」

 ボロボロだった。夕食時、またもご飯をお茶で流し込んでいたら、OBから優しい声をかけられた。「がんばっているな」と。
 刹那、石塚さんの目から涙があふれだしたのだった。

 石塚さんはラグビーノートにこう、心中を吐露した。
 「なぜだろう。この気持ちはコトバでどう表現していいのかわらかない。胸の底から涙が出てきて止まらなかった。しかし、ひとつの青春のナミダとしてココロの中にいつまでも残しておきたいのだ」

 そうだ。青春ど真ん中である。
 もはや理屈ではない。タックルマンはフランカーとして突っ走るしかないのだった。

現在の菅平。芝のグラウンドが増えて昔とは景色が違うが、青春の詰まった場所。(写真/BBM)

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