19歳でオールブラックスと練習。姫野和樹の通訳もした田中元珠、日野で代表入りへ。
一流はぶれないと、田中元珠は感じた。
留学先のニュージーランドでは、オールブラックスことラグビー同国代表のスターたちとよく練習してきた。
同じSHのアーロン・スミスに接点からのボックスキックを習う。蹴り上げる際には必ず、ボールを地面から45度、傾ける。中学時代に憧れていたFBのベン・スミスからも、手にした球を足に当てるまでの「ドロップ(足元へ手放す)」に一貫性を感じた。
「ベンは細かいところ(動作)ができている。プレッシャーをかけてもそれが変わらないので、よほど練習していないとこうならないと感じました。アーロンもディテールを大事にしていた。蹴り方は人それぞれでいいんですが、ボールドロップは大事。落とす時は45度。これは、アーロンには口を酸っぱくして言われました。ハイランダーズで2番手のSHだったケイン・ハミルトンは(ボックスキックの際に)ボールを縦にして持っていたので『これも人それぞれだな』と思いましたが、自分がやってしっくり来たのはアーロンのやり方でした」
一貫性は、技術以外のところにもあったと見る。
ハイランダーズの年代別チームの一員としてダニーデンの本拠地に通い、現役の代表でクラブの主軸たるアーロンに驚かされた。
日々のセッションで手を抜かず、身体のケアも入念におこなう。その淡々とした積み重ねで、一線級に上り詰めたのだと想像する。
「フィールドでも最後の1歩のところで2歩、出ます。日本人は毎日、練習しながら、『ニュージーランド人は適当にやっているけど遺伝がすごいんだよ』と言うことが多い。ただ、アーロンを見たら、レベル違うっすよ。やる時はやる。スタンダードが高いという意味でトッププレーヤーだなと。自分のスケジュールをプランして、遂行している感じ。自己管理が感じられましたね」
7月までに帰国し、いまは日野レッドドルフィンズでプレーする。2022年1月に新設されるジャパンラグビーリーグワンの開幕を心待ちにする。定位置を争う1人は、オールブラックス経験者のオーガスティン・プルだ。
「オーガスティン・プルに勝たなきゃ日本代表という芽もなくなる。ルーキーだからって後ろに下がらないで、自分から積極的に行こうと思っています」
もっと高いレベルに身を置きたい。そう思ったのは、田園ラグビースクールに通い始めて9年目のこと。高校選びの際、海外に目を向けた。
競技を始めた小学1年時からインターナショナルスクールに通っており、英語には慣れている。スクールのコーチで父の仁啓さんもオーストラリアに渡ったことがあり、息子のラグビー王国留学は自然に成立した。中学卒業後の2016年、親元を離れる。
複数ある選択肢のうちオタゴボーイズハイスクールを選んだ理由に、この人の資質が見え隠れした。
「日本人が少ないなかでの生活がしたかったので。(候補に挙がった)ほかのチームには結構、日本人が多かった。自分的には、英語も学びつつ(ラグビーをしたい)という感じでした」
1日でも早くレギュラーに定着すべく、1学年上で抜群にうまかったジェームズ・アスコットと行動をともにした。後にハイランダーズ入りするアスコットを追い越すべく、早朝のトレーニングジムに足を運んだ。
「どう身体を作っていくか、どうパスの精度を上げるかを考えると、朝5時半とかに起きて、練習して、食事で何を摂ればいいかも意識する…。でかい壁に立ち向かうには、そういう小さなことをやらないと…と、着いてすぐに気づきました。ジェームズとは毎朝、練習していました。もう、双子なんじゃないかと言われるくらい一緒にいました。そして、ジェームズがいないところで努力する。ジェームズの下でやるのではなく、ジェームズからポジションを獲るという気持ちを大切にした。これは、いまでもそうです。もしずっとダニーデンでやるなら、アーロンを超えるくらいの意気込みでやらなきゃだめだと思っていました」
オーバーリスペクトは厳禁、との意気があった。ジムの壁にはリッチー・マコウら、卒業生の寄贈したオールブラックスのジャージィが飾られていた。それらを眺めては鍛錬に励んだ日本人留学生は、2018年、高校で不動の先発選手となった。
子どもの頃から中学卒業にかけては、身体の大きさと器用さを活かし、突破役のCTB、司令塔のSO、最後尾のFBを歴任した。ただしニュージーランドでは、現地の指導者の助言もあって大型SHとして活路を見出してきた。
翌2019年にワールドカップ日本大会観戦のために帰国すると、父の知人を介して大会でプレーするオールブラックスのメンバーとランチの機会を得る。ニュージーランドに戻ると、そのうちのひとりで、中学時代からファンだったベン・スミスに自主練へ誘ってもらえるようになった。やがて、いまの憧れであるアーロンとの縁ができた。
「日本人って、遠慮がちなところがあるじゃないですか。でも、向こうの世界では『勝たないと、下に行くよ?』みたいな感じ。僕的には、何をやるにも100、120パーセントの気持ちでやらないと生きていかれない感じでした。その意味では誰とつるむかも大事でした」
オタゴ大に通いながらU20(20歳以下)ハイランダーズとクラブシーンで活動していた2021年、本家ハイランダーズのアーロンとボックスキックの練習をしていると、トニー・ブラウン ヘッドコーチの目に留まった。
「チーム練習後にキックしていたら、長ければ15~20分も見てもらう時があった。本当、ラッキー」
日本代表のアタックコーチとしてワールドカップ8強入りの名伯楽は、「ギャーギャー言わないコーチ」だったと田中は言う。
「ただ、『ここはこうで、これはこう…』『このシチュエーションならこうで…』と細かく伝えてくれる。トップコーチの観方を教えてくれました。クラブラグビーでのパフォーマンスもあがりました」
ハイランダーズは、今年のスーパーラグビー トランス・タスマンで準優勝する。結果を出すこのチームに、田中は深くコミットする。重要な任務があったからだ。
U18ハイランダーズを教えていたハイランダーズのアシスタントコーチ、ケイン・ジュリーからの紹介で、新加入した姫野和樹の通訳を務めたのである。日本を代表するバックローにミーティングの意味や練習中の指示がわかるよう、メモを取りながら言葉を添える。「力の証明」を目標に海を渡ってきた戦士の使命感に触れつつ、職務を全うした。
「朝、大学に行って、姫野さんのミーティングに入って、お昼は一緒にランチをして、その後に(ハイランダーズの)フィールドトレーニング。その後に自分の練習をぎりぎり、できるくらいでした」
この夏から日本に戻ったのも、この縁がきっかけだ。姫野と行動を共にするなか、ダニーデン在住で日本代表ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフと邂逅(かいこう)。「もう少しこちらでプレーがしたい」という将来設計を伝えたら、こう助言されたという。
「日本代表になりたいなら、日本でプレーした方がいいよ」
2018年以降、息子の一吹(現 早稲田実業高)を田園ラグビースクールへ入れていた山下大悟の紹介でNTTコム、日野の練習に参加したことがあった。最終的には、山下がコーチをする日野で道を切り開くこととなった。
フロンティアの気概で一流との知己を得てきた田中は、いま、新居を探しながら実家とグラウンドを往復する日々を過ごす。
直近の目標は、あのオタゴボーイズハイスクールのジムの壁に自分の日本代表のジャージィを飾ることだ。
「何でも、俺が、1番になりたいんで。まだないので、俺が一発目をやりたい」