【ラグリパWest】事故からの生還、新しい道へ。 松井亜星 [大阪桐蔭高校・プロップ]
神は楕円球を取り上げた。
絶望=暗黒。
ただ、一筋の光は差し込む。
松井亜星(あせい)は17歳以下日本代表。大阪桐蔭のプロップである。
交通事故に遭った。
「5月の22か23日でした」
日はよく覚えていない。
夜、自転車で帰宅中、居眠り運転の車に突っ込まれる。
「気がついたら、ベッドの上でした」
2日間、意識を失っていた。
はね上げられた時、頭がフロントガラスに激突した。脳に障害が残る。
「左手は最初、動きませんでした。グーができなかったです。握力は70近くあったのが6くらいになりました」
鼻と口にある細長い傷跡が事故の大きさを今でも物語る。
リハビリに入った7月、医師から告げられる。
「もう、ラグビーはできないよ」
17歳は振り返った。
「頭の中が真っ白になりました。ラグビーを続けて、将来、社会人でやる。その夢がシャットダウンされてしまいました」
世代の代表に入っていただけに、最上の桜のジャージーを身にまとう可能性もあった。
「3日間くらい、どうやって生きていこうか、とそればっかりを考えていました」
絶望感はチームをもひと飲みにする。
100回記念となる全国大会は府予選決勝で東海大大阪仰星に8−19で敗れた。
敗者復活出場をかけた近畿地区のオータムチャレンジも準決勝で天理に10−19。花園への連続出場は8年で途切れた。
年が明ければ46歳になる監督の綾部正史(まさし)は視線を落とした。
「強いチームというのは相手を上回れる部分をたくさん持っています。彼の事故で、大きなひとつを失いました。前後半の60分、絶対に上回れる部分がスクラムでした。振り返れば、亜星がいないのは大きかったです」
松井は1年の時には全国優勝を経験した。レギュラーになった2年は全国8強。3年は地区予選敗退。戦績としては下がり続ける。
そこに事故も加わる。
悲嘆で包まれた最終学年。
それでも、生きて、前に進む中で、希望が芽生える。事故前の体に戻すためのリハビリからだった。
「4月から専門学校に行って、理学療法士になろうと思っています」
理学療法士は運動や温熱や電気などで患者の運動機能の維持改善を図る。PT(Physical Therapist)とも呼ばれる。
「リハビリの先生は若くて話しやすい人でした。年もそう離れていないのに、僕のことを救ってくれました。こういう仕事につきたい、と思うようになりました」
松井はチーム医療によって、以前の体の機能を徐々に回復させていく。
チームには、作業を通して、回復を助ける作業療法士や発声練習や食事形態のアドバイスをする言語聴覚士も含まれていた。
その松井のストーリーを高校ラグビー中継でおなじみのMBS(毎日放送)が、情報テレビ番組『せやねん』で取り上げた。
関西ローカルで土曜日の午前中に放映される。画面に登場したのは誕生日の翌日、11月28日だった。
「映ってる、恥ずかしい、ってなりました。すごかったですよ。僕はSNSをやっているんですが、そのフォロワーが一気に200、300増えました」
みんな、松井を応援している。
ラグビーを始めたのは大阪の文の里中。学外の硬式野球から中3の時に転向する。興味が沸いた。大阪桐蔭に進んだのは、ひと回り近く上の兄・一平もOBだったからだ。
行きつけの整骨院が併設するジムで、週3程度、自主練を怠らなかった。最高はベンチプレスが150キロ、スクワットは280キロまでもって行く。事故に遭うまでの体格は174センチ、110キロだった。
「僕の役目はセットプレーと力仕事でした」
強みだった部分をこれからは自分と同じような患者を支える力に変えていく。
後輩たちにはメッセージを残す。
「新チームはもっと意識を上げて頑張ってほしいですね。そして、日本一になってくれたらうれしいです。その姿を見て、僕もいい刺激をもらうつもりです」
名前の「あせい」には込められた思いがある。
<アジア(亜細亜)の星になってほしい>
フィールドは異(こと)になった。
しかし、スターを目指す松井自身の歩みは、なんら変わることはない。