コラム 2020.10.05

【ラグリパWest】ヤサカのシンゴ、最後の全国大会。 山本清悟 [奈良朱雀高校監督]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】ヤサカのシンゴ、最後の全国大会。 山本清悟 [奈良朱雀高校監督]
奈良朱雀高で60歳の定年を迎える山本清悟監督。現役時代はPR。「ヤサカのシンゴ」の異名を持っていた。

 あだ名は「ヤサカのシンゴ」。
 青春の頃、暴れん坊として名をはせた。
 その山本清悟がこの10月3日、還暦を迎えた。
「気がついたらここまできてたなあ…」

 シンゴは、奈良朱雀(ならすざく)で保健・体育とラグビーを教えている。
 来年3月末で定年だ。この秋の全国高校大会奈良予選が監督としてのラスト。初戦は10月25日。相手は天理二部(定時制)。天理親里グラウンドで午前9時30分に始まる。
 勝てばシード校の天理と対戦する。相手は全国優勝6回の名門である。

「結果は別にして、向かっていけるかどうか。勝てる相手に勝っても、何の自慢にもならん。強い相手に立ち向かう気持ちが大事やね」

 ラグビー人生が始まったのは、15歳。伏見工への入学直後である。180センチ、90キロ近い体躯。当時、もめごとにはめっぽう強かった。通った中学の弥栄(やさか)では任侠集まりからさかんに勧誘を受けた。
「ラグビーはルールのあるケンカだぞ」
 監督の山口良治はそう口説いた。

 1年の愛知遠征で山口は包みを手渡した。
「これを食え」
 大きなおにぎりが3つ。コンビニはない時代。シンゴは父子家庭だった。
「親戚はたくさんおったから、おばさんに頼んだら作ってもらえる。でも、先生は家庭事情を考えてくれはったんやろね」
 シンゴは心に誓う。
<この人のために、がんばろう>
 そして、左PRとして2、3年と連続して高校日本代表に選ばれる。初の快挙だった。

 1977年(昭和52)の第3回遠征はオーストラリア。シンゴは8戦中7戦に出場する。戦績は3勝4敗1分。主将は河瀬泰治だった。
「ええ選手やったよ。選ばれていた3年生がケガをしてなあ、急きょ呼ばれたんや」
 山口がコーチだった幸運もあったが、シンゴ自身も優れた突進力などを持っていた。
 河瀬はのちにNO8として日本代表キャップ10を得る。今は摂南大の総監督である。

 1978年度、第4回となるイングランド遠征は4戦3勝1敗。全試合に出場した。
 全国大会にこそ出場できなかったが、シンゴは創成期の伏見工を支えた。日本代表キャップ30を持つLO大八木淳史は1つ、同35のSO平尾誠二は2つ下だった。
 母校は冬の花園優勝4回の名門になる。京都工学院と名前を変えた。

 大学は日本体育。山口の母校でもある。
「将来は教員になれ。おまえはやんちゃなやつの気持ちが分かる。教えられる」
 1年夏の菅平合宿は嫌気が差して逃げた。東京を経由して京都に帰る。その時、自宅に山口から電話が入る。
「すぐに行く。待っとけ」
 伏見工は菅平での合宿の初日だった。山口は着いたその足で戻って来る。

「先生にボコボコに殴ってほしかった。そしたら、そこで先生との縁は切れる」
 山口はそうしなかった。手を上げることもなく、怒りもせず、3年間の思い出を淡々と語った。ふと見ると恩師は泣いていた。
「先生は教え子みんなの性格を完ぺきに把握してはったんやろうね」
 シンゴはその日のうちに菅平に戻った。

 日体大では、胆力もプレーもひと味違う3つ上の先輩に出会う。
「下駄を履いて、肩で風を切って歩いてはった先輩は何人もいたけど、怖くなかったね。でも、ひとりだけ目つきが違った人がいた」
 岩出雅之。主将、FLとして16回大学選手権でチームを4強入りさせる。優勝する明大に7−17と敗れた。後年、帝京大の監督として、大学選手権9連覇を達成する。

 シンゴには高校時代から腰痛があり、レギュラーになったのは3年から。4年時の19回大会は初戦で0−29と同志社大に完敗する。相手は3連覇の初年だった。
 卒業後は山口の助言通り教員になる。1984年に開催された「わかくさ国体」のため、ラグビーを強化していた奈良県で奉職した。所属した奈良クラブでは神戸製鋼や近鉄と戦った。トップリーグの前身である関西社会人リーグの時代である。

 2年の教育委員会勤めの後、奈良工の定時制に15年つとめた。奈良朱雀の前身である。2000年に全日制に異動。同時にラグビー同好会を作り、翌年、部に昇格させた。2007年に奈良商と合併。現校名になる。

 奈良朱雀の花園出場はない。天理と御所実という両巨頭の存在がある。ただ、全国予選には常に単独で出続けた。
「1、2年生で出る新人戦に1回だけ15人が集まらなかったことがあっただけやね」
 部を存続する努力を20年、続けてきた。

 今年4月には中瀬古祥成(よしあき)が御所実から転入する。コーチとして、全国準優勝4回のやり方を落とし込んでいる。
「よくやってくれている」
 下地は作った。勝利は後進に任せていく。

 60年を生きた中で学んだことがある。
「一時の勝ち、負けは関係ない。置かれているところで、どれだけ頑張るかや」
 伏見工に進んだのは、野球推薦を受けた学校を不合格になった理由もあった。
「高校に行く気はなかったけど、落ちて、合格というものがほしくなった」
 中3の担任、下村先生は1か月間、自宅に通って勉強を教えてくれた。そして、山口と出会い、裏街道を歩くこともなかった。
 人生は最後まで分からない。そのため、前向きに生きる。シンゴを貫く哲学である。


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