コラム 2020.09.24

【コラム】ラグビーに取り憑かれた。救われた。

[ 田村一博 ]
【コラム】ラグビーに取り憑かれた。救われた。
JR大森駅の前で臨時のスクラム講座を開いた大場哲哉さん。



 最悪だった。
 2019年に催された日本でのワールドカップの開幕からちょうど1年。2020年9月20日は、憂鬱な気分の中で目覚めた。
 前日の午前中に9月25日発売号の校了を迎えた。そのまま軽く祝杯。一度帰宅して仮眠し、夜、ふたたび酒宴へ向かう。
 無茶なスケジュールながらも夜の街に出たのは、会いたかった人たちからの誘いがあったからだ。

 楽しかった。
 しかし、飲み過ぎ+眠すぎのため、みんなと別れた後、電車にスマートフォンを忘れる。
 この国を熱狂させた楕円球の祭典のキックオフから365日後。ヘマをした記憶を頭に刻むには都合が良いものの、まったく不要な記念日となった。

 酒席のメンバーには、トップリーグチームのアナリスト経験者ふたりと、もう一人、ニュージーランドから帰国し、14日間の隔離期間を終えたばかりのラグビーマッドがいた。
 大場哲哉さんは北海道・釧路出身の51歳。王国でのラグビーコーチインターンを終え、前日は知人を訪ね、都立高でコーチングをしたそうだ。

 大森駅近くの居酒屋へ、少し遅れて到着した。近況報告もほどほどに、すでにヒートアップしていたラグビートークに加わる。
 あまりの濃密さに「みなさん変態ですね」と言うと、それぞれ嬉しそうな顔をしていた。

 中でも、大場さんの顔からは笑顔が絶えなかった。
 2年続けてニュージーランドに渡り、クライストチャーチにあるセントビーズ高にて高校生たちを指導した。無給ながら、「お金を払っても買うことのできない時間でした」と話す。
 2019年の4月に日本を発つ前は人生のどん底にいた。「人生が変わった」と言う。

◆いつもラグビーが胸の中にあった。

 渡航前は塞ぎ込んでいた。
「車を走らせているとき、片側は海。そちらにハンドルを切ろうか、と思ったこともありました」
 ただ、左に海辺の崖がある一方で、その逆側には、いつもラグビーの存在があった。結果的に、そちらに舵を切ったから、いま、盃を酌み交わしながらラグビーを熱く語る時間を過ごせている。

 大場さんは、厚岸潮見高校時代まで野球部に在籍した。裕福な暮らしではなかった少年時代。この小さな世界から抜け出して海外に出たいと願い、北海道教育大学釧路校に進学し、英語を専攻した。
 ラグビーと出会ったのは20歳の時だ。テレビで観た早明戦に心奪われた。

「画面から伝わってくる迫力に衝撃を受けました。大学の食堂などで、破れた、薄汚れたTシャツを着て、仲間と笑い合っているラグビー部の連中を見ていました。すべてがうらやましかった。当たり前の道を、安全運転で走っている自分を、すごくつまらなく感じました」
 そんな気持ちを察してくれたか、同じ学生寮に住むラグビー部の友人が「一緒にやろう」と誘ってくれた。

 182センチある。LOをやった。
 大学卒業後、中学校の英語教師として教壇に立ちながら地元、釧路ラガーに加わる。国体選手を目指し、時間を見つけては努力も重ねた。
 2009年、10年後に日本でワールドカップが開催されると決まってからは、例えばエディー・ジョーンズのコーチ塾に参加するなど、指導の勉強にも力を入れた。「ワールドカップ開催時、何かの力になれることがあれば嬉しい。そのための準備だけはしておこう」と考えたからだ。

 ただ、教員生活の中でラグビー指導に関わることはできなかった。赴任する中学校にラグビー部はなく、サッカー部、バスケットボール部、スキー部、女子バレーボール部の顧問となる。
 釧路工業高校ラグビー部の外部コーチを務めたこともあるが、それも深くは付き合えなかった。部活顧問としてベストを尽くすのが最低限の責任だと思ったから、ほとんどの週末は教え子たちに愛情を注ぐので精一杯だった。

 一時期、高校教諭となる希望を出したが願いは届かなかった。年齢を重ねるとともに英語科教員としての仕事は激務となっていった。
 2019年の春まで3年在籍した学校では心が折れた。病院から診断書も出た。
「最後の年、女子バレー部には3年生がふたりいたのですが、彼女たちの最後の試合に行ってあげることができなかった。『大場先生が来られないなんて、よっぽどのことだよね』と話していたらしいです」
 各学年向けの授業に向け、毎日、それぞれの準備を丁寧に繰り返した。専門分野でない部活動の指導も、研究を重ね、部員たちの心を満たすように情熱を注いだ。
 時間は少しも余らなかった。

◆ラグビーは誰のもの。

 常に全力で取り組む性格ゆえ壊れかけた大場さん。「左にハンドルを切れば楽になれるかも…」との思いが時々よぎったのは、この頃だ。「(こらえきれずに)ダムが決壊するような感じでした」と話す。
 そんなときだ。ラグビー仲間のSNSを通してニュージーランドでのコーチインターン募集の告知を知る。いてもたってもいられなくなった。

 現地に問い合わせをする。
 やがて、「ぜひ来てください」の返事が届いた。
「それでも、すぐには踏み出せない自分がいました。職場に復帰して、あと10年…という人生もありましたから。ただ、自分にささやきかけるもう一人の自分なのか、神様がいました。受け入れオッケーの返事ももらい、これだけお膳立てされているのに行かないのなら、いつ行くんだよ、と」

 決断。そして退職。クライストチャーチの空港に降り立った。
 渡航費、滞在費もすべて自分持ちで、さらに無給。ただラグビーが宗教の国で、そのカルチャーの中にどっぷり浸かる機会を得た。
 1年目はセントビーズ校のインターナショナルプログラムに参加している日本人選手に社会科を教えながら、U16カテゴリーのBチームを指導するコーチのひとりになった。2019年の4月に渡航し、5か月ほど、その暮らしを続けた。
 充実を感じ、翌年(2020年)もニュージーランドへ向かう。ただ、コロナ禍の影響を受けて国際プログラムは中止となったから、セントビーズ校U18チームのウォームアップ担当と58キロ以下チームの指導スタッフとなる。
 
 この2シーズンで、いろんなことを教わった。
「その中でも、もっとも強く感じたのは、ラグビーは誰のものだ、ということです。ニュージーランドでは、それがはっきりしています。だからコーチは、例えば90分の活動時間なら、きっちりと練習計画を練って無駄な時間を作らない。選手からラグビーをする時間を奪わないし、選手に選択、判断させるようにする。基本を徹底的に指導するところから始めるのも、その選手が将来成長していくためです。そこを急いだりはしません」

◆ラグビーには嘘がない。

 オールブラックスのFWコーチを務めていたマイク・クロンさんのコーチングを目の当たりにする機会が何度もあった。その他の指導者たちの情熱や理論にも触れ、垣根のないラクビーカルチャーの中で生きる幸せを満喫した。
「これまで、ずーっとラグビーに没頭したいな…と言う気持ちを秘めて生きてきました。そのままだったら、死ぬ時にやりたいことをやり切れたか、と問われれば、後悔が残ったかもしれません」
 いま、ニュージーランドで得たことを日本で伝えていきたいと思っている。毎日の練習後、クライストチャーチのカフェやパブの片隅で、その日学んだことを書き留めてきたノートは宝物だ。

 どん底まで落ちたからこそ、自分の気持ちに正直な生き方に踏み出せた。でも、大場さんは、もっと若い頃に王国へ旅立てば良かったとは思わない。
「昨年の春が、人生の中で、その時だったのだと思います。ラグビーに出会い、いろんな部活の顧問をやって、悩み、疲れた。その中でラグビーを思う気持ちを持ち続けてきて、最後に、神様がいまだよ、と肩を叩いてくれた。すべてはつながっている。いろんなことを経験してきたから、いま、様々な考え方を吸収できています」

「ラグビーは、ウソのないところが好きです」と言う。
「きれいごとを言っていても、ピッチに立てば本当の自分が出る。相手が走ってくれば体が止めようと反応するし、もし、怖くて止められなくても、本当は止めたい自分がいる。それを乗り越えていくところにラグビーを感じます」
 人生を振り返る。
 経済的な理由から先の見えない少年時代を歩み、「自分なんて」と、自信のない日々を生きていた。でも、ハタチで出会ったラグビーは、その瞬間にボールを持って走った者、タックルした者が主役になれた。それまでのことなんて関係なく、その瞬間に全力を尽くした者、責任を果たした者を仲間は認める。そんな世界があることを知り、ラグビーを深く愛すようになった。
 そんな素晴らしいスポーツを、一人でも多くの若者たちに伝えたい。

 大場さんと過ごした夜が明けても見つからなかったスマートフォンは、夕方になって新宿駅の遺失物事務所に届けられた。
 戻ってきたものの中身をチェックすると、前夜に撮ったいろんな写真があり、少しずつ記憶が蘇った。その中には、大森駅前で見知らぬ親子連れに「ラグビーですか?」と話しかけられ、なぜだかその場でスクラム指導を始めた大場さんの写真が何枚もあった。


【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。


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