【コラム】部活動の頂点と、原点。
神谷拓著「部活動学」には、巻頭で上原浩治氏(レッドソックスなどで活躍)との対談が掲載されている。上原氏はローティーンの部活動について「一番大事なのは、そのスポーツが好きになること」と言い切る。勝利を否定もしないが、結果に傾きすぎる活動の主が、結局、誰なのかを問うているように聞こえる。
この活動の主人公はいったい誰なのか。いつの間にか教える側になっていないか。そのチェックを怠ると、勝利主義や指導上の暴力などの問題以前の、そもそもの根っこからぶれてくる。ぶれるような見えない圧力が日々働いている。この著書では「部活動を子供の自治活動」と定義づけていて、この「縛り」が論点を明確にしていて興味深い。
ラグビーマガジンでは過去に新入生勧誘の話題は何度も取り上げている。素晴らしいアイデアも取り組みもあるけれど、青山高校ラグビー部がこの状況で19人もの新人を引き付けたのは、きっと「主人公は俺だ/君だ」と主格がはっきりしていたからではないだろうか。思い切り私的な体験を熱弁した2年生の情熱は、多くの人に自分のストーリーとして届いた。素敵な映画みたいなスピーチだったんだろう。
次々と大会が中止になり、大学も、花園も、本当に試合が行えるのか心配だ。先のことは分からないってこんなに不安定なのかと自らのひ弱さも思い知る。しかし、
そもそも、なんで俺はラグビーをやってんだっけ? 何のために集まっているのだっけ? が見えていれば、何かは進められるのではないか。手足を動かしていれば、その過程で新しいものが見えることもある。またそこに取り付けばいいのではないか。
街中がマスクだらけの時代になって、高校時代の恩師の辛抱強さに今、また感謝している。先生はきっと教えることはいくらでもできた。あえて教えずに見守った。主役は誰か。部員は問うまでもなく皆、知っていた。最近の最悪のできごとの中で、唯一の救いは、あるラグビー部で起きていた歪みについて、部員自らがアクションしたことだ。今回だけでなく問題が重なり、部のあり方がただされる厳しい状況だ。再起への道は険しいが、自分のため、仲間のため、大好きだったラグビーのために手を上げ、声をあげるのをやめなかったことには、頭が下がる。何ひとつ、ひとごとにしない。そういうラグビーマンが今も稲城にいることは忘れない。