【ラグリパWest】気がつけば18年目。南浩史[グリニッジ・エンタープライズ代表]
南浩史(みなみ・ひろし)がビジネスを始めたのは2003年だった。
トップリーグの開幕と同じ年である。
仕事はこの7月で18年目に入った。
「気がついたら、ここまで来ていました」
49歳が主業とするのはラグビー用品の製作や輸入、販売などである。
屋号は「Greenwich Enterprise」(グリニッジ・エンタープライズ)。世界の標準時となる天文台からとった。
「時差が0。いつの時代も遅れることなく、早まることなく、普通でいたいのです」
社員はいない。妻・栄美が教育関係の仕事をしながら、手伝ってくれている。事務所は兵庫県の尼崎。南はここで育った。
扱う商品で認知度が高いのはIMPACT(インパクト)のヘッドギア。近鉄の正面健司やヤマハ発動機の日野剛志ら元日本代表がこのオーストラリアのブランドを愛用する。
正面のヘッドギアは黒地に赤い稲妻が走る。南はこのSOの一ファンでもある。
「彼のプレーを見ているとワクワクします」
その付き合いは同大の寮に連絡を取って以来。15年を超える。
ラグビーは報徳学園入学後に始めた。テレビで見たインタビューで進学先を決める。
「生徒をほめてあげたい、という内容でした。いい監督やなあ、と思いました」
話していたのは前田豊彦。優勝3回の國學院久我山を16−4で下した直後だった。64回大会(1984年度)の2回戦である。
現役時代の体は164センチ、60キロ。WTBだった3年間は日々くたくただった。
「毎日、ランパスを1時間はやってました」
数人が横一列に並び、ボールをつなぎながらの100メートル全力走は延々続いた。
3年生の夏休み、上半身裸で生タックルをさせられた。理由を笑顔で推測する。
「光GENJIの影響じゃないですか」
当時、ジャニーズのアイドルグループはタンクトップを脱いだりして歌っていた。今は確かめる術がない。全国4強1回、8強6回の祖となった前田は1992年に他界した。
南は最後の冬、太ももを肉離れする。68回大会(1988年度)は22人の選手登録を外れた。チームは勿来(なこそ)工を37−3で破るも、2回戦で天理に0−20と完敗した。
この大会の優勝校は大阪工大高(現・常翔学園)と茗溪学園。昭和天皇の崩御で決勝戦は中止となり、両校優勝となった。
高校時代、先輩から頼まれたおつかいが今のビジネスに役立っている。
「おまえのセンスでパンを買って来て、ってよく言われました。そうすると、よろこびそうなものを買ってこないといけません。それが仕入れなんかに生きていると思います」
一浪しても受験がうまくいかなかったこともあって、オーストラリアに渡った。
「当時、ラグビーと言えばニュージーランドでした。僕は逆にオーストラリアを見てみたい、という思いがありました」