【ラグリパWest】社業に還る。 牟田至(関西学院大学前監督)
初年度は4位。最終戦で立命館にサヨナラPGを決められ、選手権出場を逃す。
「あと1年早く、牟田さんに会いたかった。厳しさも、優しさもある牟田さんがいれば、チームはもっと強くなっていたはずです」
試合後、CTB金淳英(きむ・すにょん=現東京ガス)は涙声で語っている。
次年度も4位。2年の成績からセットプレーの安定が不可欠と学生が実感する。そのため、春はスクラムを4000本組んだ。春季トーナメントは7位も、秋のリーグ戦は3位に食い込んだ。明治の善戦の源でもある。
学生主体の尊重と同時に「チーム方針」を明確に打ち出す。
「タックルしないやつは使わない」
3年目にそれを具現化したのがSH橋詰学やCTB福本泰平だった。2年生の橋詰は天理高時代、控え選手。4年生の福本は御影高出身。公式戦出場は0だった。有名校2軍でも無名校から来ても、努力すればレギュラーになれる。チームには公平感が漂った。
牟田は48。練れる年齢になる。
全国舞台を最初に知ったのは大阪・北野高。チームは1年時、42年ぶりに全国大会(67回=1987年度)に出場した。
「すごく人が入ったのを覚えています」
3回戦で12−16と伏見工(現京都工学院)に敗れるが、観衆は2万超。2代前の花園ラグビー場はタッチライン際まで人であふれた。
一浪後、関西学院に入学する。高校を同じくする双子の兄・誠は同志社を選び、同じFBとして活躍。卒業後は広告業界で生き、現在は台湾博報堂の社長をつとめる。
当時の関西学院はBリーグ。強豪ではなかったため、サントリーへは一般試験で入った。その後、ラグビー部から召集がかかる。
サンゴリアスと呼ばれるチームでは速さを武器に2年目から公式戦出場。日本代表キャップ8の今泉清を押しのけた。コーチ時代のエディー・ジョーンズからも指導を受ける。イングランド代表監督は今でも「ムタ」と気軽に声をかける。
全国社会人大会(トップリーグの前身)では1回(48回=1995年度)、日本選手権では2回(33、38回=1995、2000年度)の優勝を経験する。ケガもあったため、2001年3月に現役引退。在籍は6年だった。その6年後、関西学院の監督になる。
「牟田さんはすごいですね」
定期戦を行う立命館の監督・中林正一は言った。牟田の2期5年の成績は5、1、4、4、3位。5位以下のBクラスは1度のみ。元日本代表HOは6学年上の牟田に尊敬がある。
「いやー、しんどかった。大変でした」
牟田は総括の言葉を吐き出した。
家庭に帰れば、中1と小2の2児の父である。ようやく男親としての務めが果たせる。
チームの後事は小樋山樹に託した。
当初、2年で退任する予定だった。しかし、学生側から懇願され、1年延長をした。5年に及んだ監督生活は社業に影響を与えた可能性もある。ただ、強豪チームで若い人や組織を動かした日々はこれからに生きる。
牟田は得難い経験をしたことになる。