【ラグリパWest】関西学院、復活す。5年ぶりの全国舞台へ
関西学院がリーグ戦を最後に制したのは2014年。それから5年間、苦闘する。
翌年、ボールを動かすラグビーに固執するあまり、キックによるエリア獲りの意識が薄れた。首位から最下位の8位に一気に沈みこんだ。優勝監督だった野中孝介は辞任した。
2016年、新任監督の大賀宏輝と部員たちが指導をめぐって懸絶する。大学職員でもある大賀は現場を離れた。1勝6敗で連続最下位の危機だったが、並んだ3校間の得失点差でかろうじて6位におさまった。
関西学院は伝統として「学生主体」を掲げている。監督は基本的に強制をしない。話し合いで方向性が決まる。学生たちがラグビーで自主自立を学び、社会に出てほしい、という願いがある。ただ、時として両者に摩擦が起こってしまうこともある。
翌年、OB会が中心になって白羽の矢を立てたのが現監督の牟田である。
卒業後、サントリーでフルバックとして活躍し、現在はサントリー酒類につとめるビジネスマンである。
牟田は再登板だった。2007年、2008年の2年間、指揮を執った。1年目は5位、2年目は51年ぶりとなる関西制覇を果たしている。
牟田は学生たちとの対話を重視する。
「主体はいいけれど、主導はよくない」
ミーティングを重ね、意思疎通を図る。
主将は赤壁尚志。牟田は絶賛する。
「赤壁は『しんどい』と一切言いませんでした。大した男でした」
自分たちの主張も大切だが、勝てなければチームは崩壊する。防ぐには協調しかない。お互いがその思いを強くする。
2017年は3勝4敗で4位。最終戦の立命大は終了寸前に犯した反則をペナルティーゴールに変えられ、19−22で惜敗する。引き分けなら得失点差で選手権に出場していた。
フッカーだった赤壁は現在、大阪の「はつしば学園小学校」で教員の道を歩んでいる。
「僕の周りには昔から子供がたくさんいて、一緒に遊ぶことが好きでした」
大学を出てすぐに天職につける。
2018年は4勝3敗で同じく4位。2年連続で選手権を逃す。開幕3連勝も勢いが続かなかった。主将はフランカーの勝川耀。卒業後の進路は、自分の地元・伊丹にも事業所がある住友電工に定めた。
「就職活動で『君と一緒に働きたい』と言ってもらえた会社でした」
大学の4年で人物により磨きがかかる。
2019年。牟田の3年目は同時に最終年でもあった。このシーズンで監督を退任する。
「それぞれの代にそれぞれ特徴がありました。僕の中で、いい、悪いはありません。でも、ひとつ言えるのは学生にめぐまれていた、ということでしょうね」
48歳の指導者には感謝が残る。
チームにとっては牟田の3年間だけではない。それ以前の迷走や闘争すら復活には必要だった。根幹をなす「学生主体」を在籍した部員たちはもちろんOBや関係者が再考するよい契機になった。
2期5年目を総括して牟田は話す。
「学生主体というオリジナリティーがないと、ウチの存在意義はありません」
2児の父ながら、週末は家族サービスを放棄。12時間、グラウンドに立っていた。
主将の原口は、勝因を問われる。
「ブレないと言うか、やってきたことを信じた、ということですかね」
4000本のスクラムに寄り、それにかけた。結果は出る。今後の人生の指針は定まる。
就職先は大手ゼネコンの安藤ハザマ。実家は北九州・若松で「原口建設」を営む。父・和也が3代目の社長だ。従業員は10人に満たない、いわゆるファミリー・ビジネスだ。いずれは帰郷も視野に入れている。
四角い体、顔全体の笑み崩しなど原口は、いい「親方」になる雰囲気を漂わせる。学生たちが主将を決める時、ほぼ満場一致だった。その人望が学生主体と溶け合った。
スタンドオフの房本泰治(たいち)は副将としてナンバーエイトの杉原立樹(りき)と原口を支えた。
右足からのハイパント、エリア取りのキック。正確なパスでバックスをまとめ上げた。
「中学から10年間、同じグラウンドで過ごしました。色々なことがありましたが、最後にここまで来られて素直にうれしいです」
父・英利も同じ位置で大体大や大阪府警で活躍した。その道を追い、中学部からこの一貫校で楕円球を追った。
関西学院が5年間の思いをぶつける大学選手権は56回目を迎える。初戦は朝日大と九州共立大の勝者と戦う。12月15日(日)、大阪・花園で正午にキックオフされる。
勝てば準々決勝でシード校の明大と激突する。関東対抗戦1位は前年度の優勝校でもある。監督の田中澄憲(きよのり)はサントリーにおける牟田の年少者。先輩後輩の対決が実現する。
全国舞台を心待ちにする房本は、損保国内最大手の東京海上日動に、転勤が関西限定の地域職として入社する。
「卒業してもなんらかの形でラグビーに関わっていければいいなあ、と思っています」
10年の日々は母校愛を運んでくる。
練習場の第2フィールドの西には、こんもりとした甲山がある。その奥には六甲山系が広がる。季節によって色彩は緑から赤や黄、グレーと鮮やかに変化する。
その山並みは、1928年(昭和3)の創部のはるか以前、太古からこの地にある。
その美しい風景はこれからも変わらない。