コラム 2019.11.01
【ラグリパWest】泣き虫先生の育てた最初の教員、還暦に。 蔦川譲(六甲アイランド高校)

【ラグリパWest】泣き虫先生の育てた最初の教員、還暦に。 蔦川譲(六甲アイランド高校)

[ 鎮 勝也 ]
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 1998年、御影工に赴任する。
 御影工は長田工と新設の科学技術に統合される予定だったが、そのラストの2005年は単独で3年生20人のみで戦った。

 泉光太郎はその前年から2年間、コーチをした。報徳学園、明大、ワールド(現在は廃部)などで活躍したサードローは当時、学び直しの専門学校生だった。

「先生はクリームとかチョコとか菓子パンをいっぱい持って練習に来ていました」
 指導が初めての泉には「これで部員を釣るんや」と話していたが、今思えば三食を満足に摂れない家庭もあったのだろう。

 ボロボロのスパイクをビニールテープでぐるぐるに巻いて使っている部員もいた。
「報徳や明治では考えられませんでした」
 その姿に心を打たれた。謝礼は交通費込みで月2万円。週1でよかったが、いつしか毎日通うようになる。自腹を切った。

 その3年生20人で85回大会の兵庫県予選では過去最高の4強入りを果たした。
 関西学院に5−43と敗れるが、泉は最初の指導で達成感を持たせてもらえた。

「先生はラグビーが好き、ではなく、ラグビーをしている子供たちが好きなんですよね」
 タッチジャッジよりサイドを速く走って、トライした生徒とインゴールで抱き合ってよろこぶ。そんな蔦川の姿を思い出す。

 勝たせる指導者は素晴らしい。しかし、勝敗や技量に関係なく、部員たちに愛を注ぐ指導者の存在も決して小さくはない。
 泉は今、母校・報徳学園のコーチとして、監督の西條裕朗を助け、全国大会での2年連続8強を達成中だ。そこには、蔦川が実践してきた選手に寄り添う姿勢がある。 

 2006年、六甲アイランド高に転任した。
 摂南大のコーチである片畑昇はその時代の教え子だ。卒業後、蔦川の真髄を知る。

 HOだった片畑は摂南大2年の時、試合で左目をぶつけ、失明の危機に見舞われる。
「先生は落ち込んでいる僕をごはんに誘い出し、話を聞いてくれました」
 巣立っても、その愛情に変化はなかった。

 片畑は現在28歳。すでに中高の社会科の教員免許を持つ。保健・体育も取得予定だ。
「先生と出会っていなければ、ラグビーもコーチもやっていなかったと思います」

 蔦川には片畑と同世代の子供2人がいる。しのぶと諒太。上の娘は父と同じ教職に進んだ。市立の小中一貫校である義務教育学校港島学園で小6を教える。兵庫県ラグビースクールレディースにも属している。

 蔦川は来春の定年退職後は、最大で5年延長が可能な再任用を希望するつもりでいる。
 30年以上連れ添い、糟糠(そうこう)と表現できる妻の久美は話した。
「幸せな人生だと思います。好きなことをやって、生きて来られて」

 指導に詰まれば、山口の顔を思い浮かべる。
「先生やったら、どうしはったやろ」
 蔦川は今でも恩師を追いかけている。

記念写真におさまる蔦川さんの還暦祝いの出席者たち


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