【ラグリパWest】泣き虫先生の育てた最初の教員、還暦に。 蔦川譲(六甲アイランド高校)
蔦川譲(つたがわ・ゆずる)は泣き虫先生こと山口良治が最初に育てた教員である。
10月26日、還暦の誕生日を迎えた。
当日、神戸市内のホテルでこじんまりとした祝宴が張られる。教え子ら120人ほどが集まった。主賓は地元の水道筋商店街にあるバーのマスターだった。
「戸惑っています」
昭和の男は喜びを言葉にするのは不得手だ。
60歳到達を聞いた山口はしみじみ言う。
「ユズルがそんな年になるなんて考えられへん。会ったのは15の時やで」
その恩師も来年、喜寿を迎える。
蔦川は現在、六甲アイランド高校の保健・体育教員、そしてラグビー部の部長である。
チームはパーティーのあった翌27日、99回大会の県予選2回戦で姫路工を20−19と1点差で破る。祝福を送った。
蔦川が競技を始めたのは伏見工(現京都工学院)に入学直後。1975年だった。母が山口と同じ京都市役所で働いていた縁がある。
このチームで山口はFLとして日本代表キャップを13に積み上げている。
蔦川の入学と同時に山口も監督になる。保健・体育教員として赴任は前年だった。蔦川は山口が3年間を見た部員の1期生になる。
そして、大反響を呼ぶテレビドラマ『スクール★ウォーズ』のリアルが始まった。
当時の写真に映る蔦川はリーゼント。「ハマの番長」も真っ青なくらい血気盛んだった。
「あの頃は何をしても怒られました。でも、先生からは必ずフォローがあった。それがすごいところでした」
お説教の後は、ごはんを食べさせてくれたりする。優しかった。家庭訪問は当たり前。当時、家の黒電話はバンバン鳴る。
「何してるんや? 先生は今、テレビを見ているけど、おまえに似たやつが出ているわ」
指導者よりオヤジに近い存在だった。
弥栄中時代、やんちゃで「ヤサカのシンゴ」と異名がついた山本清悟(現奈良朱雀高監督)はひとつ下。LOとして日本代表キャップ30を誇る大八木淳史はふたつ下になる。
蔦川はWTBやFBをこなした。国体の京都選抜には選ばれるが、全国大会には出られなかった。伏見工は連続出場とした60回大会(1980年度)で初優勝する。山口は就任6年目。主将はSO平尾誠二だった。
蔦川は中京大に進学する。その入試前日にアクシデントがあった。山口が住んでいた阪急桂駅近くのアパートに蔦川たちが遊びに行く。食事が出て、楽しいひと時になる。
「ユズルはバイクに乗って帰ったんやけど、その時に橋の欄干に衝突して、足をうって、走れなくなってしまいよった」
中京大の監督だった金澤睦(むつみ)は日体大の先輩。山口は恐る恐る電話をする。金澤はあっさり実技を免除してくれた。
東海地区の名門で4年間を過ごし、神戸市の教員採用試験に一発合格する。
最初の赴任先は市立の看護短大(現神戸市看護大)だった。
ラグビーとの縁はいったん切れるが、要請を受け監督になった神戸学院大で指導にハマる。高校への転勤希望を出した。
「給料は年間150万円くらい下がりました。でも、嫁は何も言いませんでした」