【ラグリパWest】ワールドカップがやって来て。 田中康憲 兵庫県ラグビー協会会長
田中はこの8月で67歳になった。
「星座はおとめ座です」
笑いを誘う。
競技を始めたのは高校から。夢野台ではNO8だったが、大体大ではLO、FL、FBもこなした。180センチ、73キロのサイズを買われた。
チームは1年時、1971年(昭和46)秋の入替戦で勝ち、関西大学Aリーグに昇格した。創部はその3年前。創成期メンバーでもある。
田中が卒業した2年後、1977年に現関西協会会長の坂田が監督に就いた。WTBとして日本代表キャップ16を持つ指導者を近鉄から迎え、大体大は強豪への道を歩む。
関西リーグでは同大、天理大、関西学大に次ぐ5回の優勝記録を持っている。
県の教員採用試験には一発合格。1975年4月に保健・体育教員になった。
最初の赴任先は通信制の青雲。当時は中卒の職工や看護師見習いの生徒が多かった。
その中に筋肉が衰えていく筋ジストロフィーの男子がいた。田中は発泡スチロールでクラブとボールを作り、ゲートボールのようなことをさせ、単位を認定した。
「三田の病院からスクーリングに来ていました。親が車に乗せてね。車椅子で体をできるだけ動かさない運動を考えましたよ」
今、ラグビーが謳う「多様性」を半世紀前に身をもって知る。
2年後、東灘に転任する。前年の1976年にできたラグビー同好会を部に昇格させた。神戸市の東部、深江浜にある高校には20年籍を置いた。赴任当時は開校4年目だった。
冬の全国大会県予選の決勝進出は1度。71回大会(1991年度)では0−24で報徳学園に敗れた。春の近畿大会出場も1度。32回大会(1980年度)の県予選決勝では12−9と神戸を破った。本大会は初戦で敗退した。
「京都の花園に50点取られて負けました」
勝負とは別に田中にはささやかな誇りがある。多い時には60〜70人いた部員たちから落伍者を作らなかったことだ。
「勝ち負けも大事だけれど、仲間を作り、友情を得るということに力点をおいたつもりです。ラグビーは教育のひとつの方策、いわばツールなのですから」
今、周囲にも人のつながりが見られる。
田中を支える県協会理事のひとりに武藤暢生がいる。父・眞一は英語教員として東灘で田中の同僚だった。武藤が御影でラグビーを始める際に配慮を見せる。
「ケガの少ないSHをさせるように松原先生に言うとくわ」
当時、御影監督だった松原忠利は今、関西協会の実務トップの理事長として、傘下にある22府県協会を束ねる。
武藤は卒業後、日体大でFLに変わる。公式戦出場を果たし、今は灘の監督である。
武藤の長男・航生は関西学院の1年生。監督は御影の先輩でもある安藤昌宏だ。すでにWTBとしてレギュラーをつかむ。ただ、選抜チームなど上を目指すには、スピードを落とさず、体を大きくすることが重要だ。
父の元同僚につかえる武藤はほほ笑む。
「昔からよく知っている方なのでとてもやりやすいです」
その後、田中は神戸甲北、津名で教鞭を取り、管理職に上がる。教頭として神戸特別支援、青雲、御影でそれぞれ2年の計6年。最後は校長として神戸特別支援に戻り、3年を過ごし、38年の教員生活を終えた。
「歩いていると、教え子たちが声をかけてくれる。教師冥利に尽きますよね」
県協会では30代で理事として県選抜の強化などに当たったが、一時離れる。校長時代に副会長で復帰。2016年5月の総会で推されて会長に就任した。現在、4年目。その中であったワールドカップに恩恵をもらう。
「ラグビースクールの担当理事からは『申し込みが殺到しています』という報告が上がってきています。10年、20年先の繁栄を考えれば重要なポイントになりますね」
幼稚園、小中学生の数が多ければ多いほど、未来は明るい。ラグビーの祭典の追い風を受け、田中は前に進んでいく。