コラム 2019.09.10

【大野均からのメッセージ/その1】やっぱり、勝ちたい。

[ 中川文如 ]
【大野均からのメッセージ/その1】やっぱり、勝ちたい。
出し切ったフィジー戦。試合を終えた直後の大野均 Getty Images



 仲間のため、思いっきり相手にぶつかる。仲間のため、人垣に頭を突っ込む。楕円球と出会った時に感じた非日常の充実と責任がたまらなくて、ラグビーの虜になった。41歳になったいまも、それは変わらない。
「今季、ダメだったら来季はない。その一心で、ずっとやってきた。仲間と切磋琢磨して、ファーストジャージーを着て試合に出たい。それだけですね」

 大野均は、変わらない。
 もちろん、年齢とともに適応は施してきた。大好きなお酒は、ちょっと控えめ。スピードが衰えたと自覚する分、過去の映像を見返し、蓄えた引き出しから導かれる、読みだったり勘だったりを大切にする。ブレークダウンからブレークダウンへ。最短距離を突っ走り、体を投げ出す。
「ボールを持ってバーンと抜けてっていうプレーは、最近はもう、なかなか。自分にできるのは下働き。それだけだから」

 謙虚さも向上心も、変わらない。所属する東芝では今季、15歳下の藤田貴大が副将になった。41歳のLOは26歳のFLからよくアドバイスを受ける。「キンちゃん、いまのはもっと、こうした方がいいよ」と。
「そう、ラグビーをやっている間はタメ語で」と苦笑し、大野は続けた。
「もしも自分がうまいと信じ込んでいたらイラッと来るかもしれないけれど、一番下手なんで。だから『ゴメンゴメン、もっと頑張るわ』です。そうでなきゃ、多分、この年齢までやれてはいない」

 ただ、一つだけ、決定的に変わったことがある。日本代表、つまりはジャパンへの思いだ。「現役である以上、めざしたい」と常に話してきたのが、春先になると変わっていた。
「いまさら現実的ではないでしょう。仮に自分が呼ばれるようでは、チーム状態は極めて悪いわけだし。だから、今回のワールドカップ(W杯)は応援する側、サポートする側でありたいと考えています」
 悔しさは微塵も漂わない、潔い口ぶり。

 ならば、聞いてみたくなった。大野の経験を。3度のW杯でつかんだ喜びと無念を。そこに至る過程には、3度、あの舞台にたどり着いた大野にしか感じえない何かが、ジャパン最多の98キャップを積み上げた彼にしか感じえない何かが、きっとあったはずだから。
 それこそすなわち、自国開催のW杯に臨む者たち、その舞台を見届ける者たちへのメッセージになる気がした。
 「本当に、リミッター(限界)を外させてくれる舞台ですよね」
 大野は飾らずに語り始めた。

 初めて臨んだW杯は2007年フランス大会。大野は29歳だった。主将のNO8箕内拓郎にCTB大西将太郎、いまは亡きマンキチことFL渡邉泰憲。大会直前の負傷がなければ、WTB大畑大介もきっとピッチに立っていた。人情味にあふれ、個性派ぞろいのジャパンだった。
「同年代も先輩も後輩もいて、その中で自由にやらせてもらえた。すごく思い入れのあるチームで、すごく楽しいW杯だった」

 この大会には二つのジャパンが存在した。
 初戦を戦う「チーム・オーストラリア」、中3日で迎える第2戦の「チーム・フィジー」。それぞれの対戦相手から名づけられたチーム名が双方の立場を表していた。優勝候補との初戦は、言いきってしまえば、捨てる。ベストメンバーは万全の状態で第2戦に臨み、4大会ぶり、16年ぶりの白星をたぐり寄せる。不遇な弱小国に課せられた過密日程を乗りきるため、ヘッドコーチのジョン・カーワンがひねり出した苦肉の策だった。


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