悔いのない人生を。特別なチームで。山田龍之介(釜石シーウェイブス)
長髪を振り乱してボールを追った。
赤いジャージーの背番号5は、80分ピッチに立ち続けた。
2試合続けてのフル出場。「強い相手との試合が続くので疲れはありますが、プレーできることが素直に嬉しい」と話す山田龍之介の表情は充実していた。
山田は昨季まで5シーズン在籍したNECグリーンロケッツから、今季、釜石シーウェイブスに移籍した。
トップリーグカップでの2試合は、初戦のキヤノン戦に7-55と敗れ、6月29日におこなわれたクボタ戦に7-39。チームは苦しい戦いを続けている。
しかし、自身はピッチに立つ時間が前チーム時代より長くなり、気持ちに張りがある。
「釜石という場所でプレーするということはオンリーワン。日本のラグビー選手にとっては特別なことです。これまで以上に、ラグビーをプレーできることは当たり前ではないと、感謝の気持ちを持って日常を過ごしています」
27歳の長身(187センチ/105キロ)は、そう話す。
プレーヤーとしての生活を終えても、社員として働ける場所がある。安定した生活が約束されていたNECから飛び出したのは、プレーの場を求めての決断だった。
出番がほとんどなかった最後の2シーズン、首脳陣から練習に取り組む姿勢は評価されていた。練習試合でのパフォーマンスも悪くない手応えがあった。
しかし、戦いの舞台へのお呼びはかからない。
「(LOは)外国人選手が必要なポジションだということも理解できます。ただ、正当に競争できていないことを感じていました。その状態が続くのであれば…と、自分も思ったし、チームも同じ感覚だったと思います。それで(移籍を)決断しました」
現在は釜石市役所に所属してシーウェイブスでプレーする。
ただし『任期あり』。将来は不安定だ。
妻とふたりの子を持つ。4歳の佑馬くん、2歳の光葉ちゃんはかわいい盛り。FWをパックの真ん中で支える男は、山田家の大黒柱でもある。
そんな責任を背負う中で新天地へ向かう決断をしたのは、プレーヤーとしての強い欲求があったからだ。
「家族とも相談しました。一度きりの人生、やらなかった…という後悔より、やった上で後悔する方がまだいいと思い、決めました。それに、もし『子どもがいるから』とチャレンジすることを諦めたら、あとで大きくなった子どもたちが知った時に嫌だろうな、と思いました」
自分に正直に生きる。
西東京市立柳沢中学時代はバスケットボール部。都立大泉高校入学後、部員集めをしていたラグビー部の網に引っ掛かった。
多くの仲間が3年生の春で引退する中、親友3人で秋の花園予選までプレーを続けた。国公立大学を目指していたが、「もっとラグビーをやりたい」、「強いチームを倒したい」の気持ちが強くなり、立教大へ進学した。
転機はU20日本代表候補に選ばれたことだ。
同じ空間にいる同期たちが世界と戦う志を持っていることを知った。大学3年時、4年時、強豪校でプレーするそのときの仲間と対戦。試合には負けるも、自分は負けていない、いつか勝ってやると反骨心が疼いた。
そして、就活の時期になって気づく。将来のことを考えるも、やりたいことが見つからない自分がいた。「自分がやりたいのはラグビーだった」からだ。
大学の先輩、西田創(現・立教大ヘッドコーチ)が所属していた縁で、NECとつながる。自身のプレー映像を集めたものを採用担当者に渡し、練習参加の機会を得て入社決定。
そのときも、自分の気持ちに正直に生きた。
いま、トップチームに5シーズン在籍してきたから思うことがある。
トップチャレンジリーグでプレーしてきた仲間たちのスタンダードを、トップリーグのそれに引き上げたい。
「(好素材なのに)知らない、分からないだけの選手たちがいるように思います。これぐらいでいいだろうと考えている選手たちに、トップリーグはもっとこだわってやっているよと、知っている立場として発信していきたいと思っています」
押しつけるのではなく、言いたいことを言いやすい空気も作る。シーウェイブスを最高のチームに、最高の居場所にしたい。
「トップリーグカップに入ってチームは厳しい結果を残していますが、やってきたことが通用しないのではなくて、自分たちのスタイルを出せていないと感じています。ただ、悲観することはないし、悲観しているヒマもない。練習から積み上げていくしかないと思っています」
試合に出て伸びる力、生まれる責任感、そしてチーム愛。
釜石に来て、特別な場所に来てよかった。