コラム 2019.07.01
【ラグリパWest】ゲットは楕円球から人材に。 舛尾敬一郎(株式会社カナモト)

【ラグリパWest】ゲットは楕円球から人材に。 舛尾敬一郎(株式会社カナモト)

[ 鎮 勝也 ]
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 大学は専修に進んだ。
「熱心に誘ってもらえました」
 ここでも1年から公式戦出場。チームは2年時を除き大学選手権に出場するが、すべて初戦で敗退した。30回大会(1993年度)では明大に0−67。32、33回大会はともに同大に19−37、28−41の記録が残る。

 社会人で選んだジャージーはマリンブルー。港町の神戸をイメージしていた。
「チームと上を目指そうと思いました」
 ワールドの創部は1984年。10年後、本拠地を同じくする神戸製鋼を関西リーグで25−24と破る。連勝を71で止めた一戦は、在阪スポーツ紙の1面を飾った。青い小旗を振った女性たちはおしゃれで華やかだった。

 入社の翌年の1998年、舛尾は日本代表の下に位置するA代表に選ばれる。
 1999年度には第52回全国社会人大会で準優勝する。トップリーグの前身において神戸製鋼に26−35。舛尾は初戦のリコー戦で右上腕骨を骨折。グラウンド外にいたが、日本一にもっとも近づけた瞬間だった。

 2002年度から4季、主将をつとめた。
 翌年度からトップリーグが始まる。成績は5、9、9位。2006年度を最後にトップリーグから降格。2部のトップウエストAで2季を過ごす。2009年3月、休部が発表された。

 事実上の廃部である。
「チームってオーナーの思いひとつなんですよね。実質的な経営者が変わって、いつかはこうなるのでは、と思ってはいました」
 舛尾ら残った選手は六甲クラブに合流した。当然ながら社会人とクラブではレベルが違う。この時、真剣なラグビーは終わる。

 チームが消滅しても舛尾は働き続けた。
「お世話になりましたから」
 時は移り、会社は変わっていく。希望退職の募集があり、分社化も始まった。企業としては生き残りのため、避けて通れない道だが、ラグビーを通して一体感があった時代を知る者としてはさびしく映る。

 その流れの中でカナモトを知る。高校、大学の先輩、いわゆる「直系」の中村武からの誘いもあった。中村は熊本にあった社会人チーム・ニコニコ堂で監督をつとめた。同じように転職を経験していた。
 社業に専念して10年が過ぎていた。恩返しの期間として、短いことはない。

 楕円球を追い続け、持った人生観がある。
「やりきること」
 ワールドでのラグビー、そして仕事は自分の中で始末をつけた。
「負けることもありますし、一喜一憂することもありますけどね」
 勝敗は世の常。大切なのは出し尽くしたかどうか。あまたの試合から学んだ。
 次はカナモトでやりきる。


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