【ラグリパWest】先生のために。 加藤剛(たけし)京都産業大ラグビー部OB会会長
「男泣きですわね」
加藤剛(たけし)は言った。
44歳。京都産業大ラグビー部のOB会会長は、20年以上前のことを忘れない。
大学5年の春、実家のビジネスがうまくいかなくなった。中退して自活しなければならない。そう思い、監督の大西健に仕事の世話を願い出る。ラグビーは4年間やり切り、引退していた。
教授でもあるため、部員たちから「先生」と呼ばれている大西は尋ねた。
「家を出ないとアカンのか?」
いえ、それは大丈夫です。
「ウチは子供がおらん。ひとりくらいやったらどうとでも面倒をみられる。来るか?」
ほおを涙がつたう。恩師の大きな人間性に触れた瞬間だった。
部に戻り、空き時間はOBの工務店で賃稼ぎ。クラブ、授業、バイトの1年をくぐりぬけ、卒業する。大西が後押しをした就職先は島津製作所。のちにノーベル賞社員・田中耕一を出す地元の世界的企業だった。
その後、起業したい旨を大西に伝え、了承される。建築や清掃に関わるヘップ(現ヘップメンテナンス)を2000年、京都市内で立ち上げた。ひとり社長で始めた会社は今、従業員10人。成長を続けている。
大西は来年2月で70歳になる。古希を区切りとして監督退任を公言している。来るべき秋が最後のシーズンになる。
「47年、ですか…。京産のラグビーのために人生のすべてを捧げはった…」
加藤は感嘆する。大西が体育講師として天理大から奉職したのは1973年。同時に創部して8年がたったクラブの監督になった。
加藤がOB会長になって5年目。今年に入って、支部を東海、九州、中四国に立ち上げた。6月末には関東にもできる。
「700人はいると思います」
そのOBたちの結束を固め、大西をグラウンドの外から支える。現役の支援はもちろん、リクルート、就職にも範囲は及ぶ。
加藤は三兄弟の三男坊だ。京都・深草中ではバスケットボールに興じた。
6学年上の長兄・健太郎は立命館大のラグビー部。東海大仰星では初の国体のオール大阪にウイングとして選ばれていた。
「体のバネや運動神経は僕より全然上。仰星でラグビーをしてほしいんやけどね」
監督だった土井崇司(現東海大相模総監督)も熱心に働きかけ、洛南などバスケ名門4校の勧誘を振り切った。
仰星は加藤の3年時、創部9年目で初めて全国大会に出場する。1992年度の72回大会。加藤はウイングだった。8強戦で東農大二に8−26で敗れたものの、力が認められ、高校日本代表候補にも入った。
仰星の当時のフルバックは1学年下の大畑大介。日本代表キャップ58を持つラグビー殿堂者は高校、大学の後輩になる。
土井には、加藤を京産大に連れて行った思い出が残る。大学生に混じって一緒の練習をした。セレクションの一環だった。
「2時間くらい、年上の学生相手にずーっとタックルをしてました。教え子ながら、あいつすごいなあ、と思ったね」
大学ではひじの骨折などもあり、レギュラーにはなれなかった。
粗相をしたことは覚えている。新人集合日に、ただひとり運動靴を持ってこなかった。春は陸上部ほど走り込むことを知らない。
「ワシのを使え」
大西は車のトランクを開け、自分のシューズをのんきな1年生に手渡した。
法事と偽って練習を休んだこともある。
「おまえはここに何しに来たんや」
おおいに諭された。
しかし、不思議と干された記憶はない。
集中した時の力や、末っ子のおっとりとした嫌味のないところ、優しさや義理堅さなどを大西は魅力に感じていたのに違いない。
「僕はお酒を飲まないので、先生が飲みに行った時は運転手をしていました」