国内 2019.03.12
「私は、ぶれない」 日本ラグビーへの恩返し(1)

「私は、ぶれない」 日本ラグビーへの恩返し(1)

オツコロ カトニ(〜2018年度クボタスピアーズ)

[ 編集部 ]


 8人兄弟の3番目。貧しい家に育った。勉強は得意でなかったが、何かで身を立て両親を助けたいと願っていた。

 父親がよく言っていたのは「やられたら、やり返せ」。

 カトニはその言葉を、こんな風に解釈して生きてきた。

「やられっぱなしで終わるな。他人とは違う秀でたものを探って、一人前になれ」。本格的に体格が成長したのは日本に来てから。それまでは「うまくないし、デカくもない」選手として、懸命にもがいてきた。

 縁あって15歳の時、元日本代表のノホムリ・タウモエフォラウさんが、日本の高校への留学の道を紹介してくれた。しかし、カトニが日本へ来るのは翌年に延びた。思いもよらないことが原因だった。

「おじいさんに、反対されました。私のおじいさんは自分の手を見せて、戦争中に日本の侍に切られたんだと言いました。おじいさんは小指が無かった。その時にどんなに悔しい、惨めな思いをしたのか、私には話してくれませんでしたが、涙を流して言いました。日本に行くことは許さない。私は、おじいさんの気持ちを考えると行くことができなかった」

 まだ幼さも残るカトニの胸に強烈な印象を焼き付けて、おじいさんは翌年、他界した。
 
 あらためて日本への留学の希望を聞かされた父親は「自分の道は、自分でひらけ」とだけ言った。
 
 自分が自分の足で歩める道を作るには行くしかないと、かえって肝が据わった。覚悟を決めて、日本に飛び込んだ。
 
 トンガからの留学生の多くがそうであるように、カトニは入学から高校を卒業するまで、一度も家に帰ることはなかった。メールもない、手紙のやり取りもままならない異国の暮らしの中で、3年間必死にラグビーに取り組んだ。同じグラウンドでボールを追い、同じ釜の飯を分け合っていても、一般の高校生とは境遇が、まるで違っていただろう。

 日本で接する人々は、祖父の体験とはかけ離れ、優しくてとても親切だった。カトニは体も大きくなり、期待され、なんとかそれに応える日々の中で感謝に心を包まれていった。

「初めは、高校が終わったらすぐにどこかのチームでプレーしなくてはと考えていた。勉強は好きな方ではなかったし。それでも、やはり大学に進もう、と思ったのは後輩のため、後輩の後輩たちのため。次の時代のためです。ラグビーをやりたくてもできない人もいる」

 日本の社会で大学に進むことは大きな意味を持つと感じた。その道を、後に続く人のためにも繋ぎたいと思った。今踏みしめる一歩は自分だけのものではない。

「私は絶対にぶれない」

 一見、頑なにも響くその言葉の後ろには、まだ幼かった日に固めた覚悟、家族と日本の人々への感謝がある。
(第2回に続く)

トップリーグ・デビューは2006年第5節のリコー戦でタックルに行くカトニ(撮影:江見洋子)
トップリーグ・デビューは2006年第5節のリコー戦。
タックルに行くカトニ(撮影:江見洋子)

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