【コラム】チェーン居酒屋の夜から
ウォルター・リトルは、フィジーをルーツにニュージーランド北島はトコロアに生まれ育った。際立つラン、鋭利なコンタクトで早くから注目を集め、1988年、18歳でノースハーバー代表に呼ばれた。背を丸めて、滑らかにパスを受けるや、迷いなく前へ走り、流れる軌道と鋭角のステップを組み合わせながらゲインを切りに切る。当初のポジションの10番としてはキックの正確性にやや難があり、おもに12番で名を成した。’91年、当時の西サモアがワールドカップに現れ、いきなりウェールズを倒し、世界の多くはパシフィック・アイランダーの潜在力をようやく知る。そんな流れを加速させる存在でもあった。
’89年、19歳359日にして、カナダのブリティッシュ・コロンビア戦のオールブラックスにデビュー。翌年の対スコットランドでテストマッチ初出場を果たした。’98年8月までの代表歴にあって、プロ時代は最後の3シーズンのみだ。それまでラグビー界はアマチュアであった。もっと遅く生まれたら若くして財を築けたかもしれない。他方、金銭とは別の価値を深く知る人間の強さもある。現役を退くと’03年「建築現場の足場を築く」会社を設立、成功を収めた。その名も「リトル・スカァフォルディング(足場)・リミテッド」。少数精鋭で商業施設から住居までの現場をせっせとこなす。
オークランド・ノースショア地区の出身クラブ、グレンフィールドは、1960年代の創立と歴史は浅く、ウォルターが初で唯一の栄えある「オールブラック」である。かつて、ここでコーチを務めてきたが、’15年、こう語っている。
「会社経営には多くの時間が費やされます。コーチングをもっと深めるには、それを最優先にしなくてはならない。これが私には難題なのです」(NZヘラルド)
なんとまともな悩みだろうか。
先にウルブズに敗れたチーフスの攻撃担当コーチ、タバイ・マットソンは、パシフィック・バーバリアンズの外側CTBとしてウェールズ戦に出場している。あのころはヤマハ発動機の一員だった。そういえばウォルター・リトルはスーパーラグビー43試合出場のほとんどをチーフスでプレーした。三洋時代に群馬で育てた愛する息子が愛する古巣をハミルトンで破ったのだ。断言できるが、観戦中の親はこういうケースでは、自分の在籍したチームではなく、絶対に息子の側を応援する。父リトルのスモールなガッツポーズがあったと推察する。