復活の物語。
ブランドの求心力×ファンの思い。 YASUDAが16年の眠りから覚めるまで――。
復刻へ向けつながった 様々な運と縁
もっとも、復活までの歩みは困難の連続だった。佐藤氏にはスパイクどころか物作りの経験すらなく、すべてが手探りの状態。YASUDAの元社員で商標を守り続けていた齋藤圭太氏に手紙を出して熱意を伝え、想いを共有するところまでは進んだものの、そこで「ラストと呼ばれる木型と金型がなければ靴は作れない」という壁に直面した。
一からラストと金型を作れば、膨大な費用がかかる。当時YASUDAとつき合いのあった工場に残っていないか連絡をとったが、4社のうち3つは、すでに会社自体がなくなっていた。最後の望みを託し、残る一社に電話。返ってきた答えは、「保管してあります」だった。
ただし、製造側にすれば、千足単位の注文でなければ採算が合わない。現場は難色を示した。知人を介し、役員へのプレゼンの機会をなんとか取り付けてもらうと、佐藤氏はある秘策を携えてその場に臨んだ。
「2日前に家を掃除していたら、たまたま僕が最後に買った20年以上前のYASUDAのスパイクが出てきたんです。それを持ってプレゼンに行ったら、役員の方が資料をほぼ見ずに『協力しましょう』と言ってくださって。その後の事業を一緒にやっていくお約束もいただきました」
銀行からの融資などではなくクラウドファンディングを選んだのは、「応援してくれるファンの支援によってプロジェクトが成り立つ」というその特徴が、惜しまれつつなくなったYASUDAにぴったりだと感じたからだ。実はここでも、思いがけないドラマがあった。 「今年3月に募集を開始したのですが、目標額の750万円を達成したのが、2002年にYASUDAが倒産した日と同じ4月30日だったんです。齋藤さんからも『すごく意味のある日なんだよ』と言われて…。本当にYASUDAは、運と縁のあるブランドだと感じています」