ラグリパコラム 2018.12.29

【ラグリパWEST】 ディック・ホクリーさんをしのぶ 同志社大学元臨時コーチ

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWEST】 ディック・ホクリーさんをしのぶ 同志社大学元臨時コーチ
メモリアルサービスの時のパンフレット。ホクリーさんは優しさであふれていた

 Charles Richard HOCKLEY。
 ホクリーさんが亡くなって10年になる。

 愛称「ディック」はキウイと呼ばれるニュージーランド人。70年代後半から80年代にかけて、同志社大の臨時コーチをつとめた。名城大などの強化にも手を貸した。

 天に召されたのは2009年1月2日。脳腫瘍を患っていた。79歳だった。

 逝去の1年後に発刊された『同志社大学ラグビー部百年史』には、OBでもある坂田好弘が弔文を寄せる。
<日本ラグビーとニュージーランドラグビー交流の架け橋として、日本ラグビーをサポートして、発展に寄与した人物である>
 当時は大阪体育大の監督であり、現在は関西ラグビー協会会長をつとめる76歳は、その功績を大いに讃えた。

 中尾晃は1990年、クライストチャーチに半年間滞在する。
 同志社大から、チーム強化を始めたヤマハ発動機に入って2年目。留学1期生だった。
「空港に着いた時、入国カードを書き間違えてん。まだ英語をうまく話されへん時でなあ、係員に言葉が通じない。そうしたら、ホクリーさんが中に入って、助けにきてくれた。ほんまにありがたかったよ」
 現ラグビー部副部長には今でも感謝が残る。

 玉木一史は名城大OBだ。
 ワールドを退社。2000年に同地に留学する。地区を統括するカンタベリー協会の仕組みを尋ねた。故郷の沖縄に帰ったら役立てるつもりだった。ホクリーさんはすぐに、詳細な図表を携えてやってくる。
「2日くらいで作ってきてくれた。その早さにびっくりしたし、感動もしたよ」
 説明は日本語だった。

 ホクリーさんは、大学扱いのポリテクニックに日本語学科を立ち上げた発起人のひとりだった。授業も持っていた。
 玉木は帰沖後、国体成年の監督をつとめる。現在はトレーナーとして活躍している。

 ホクリーさんが最初に同志社と縁を結んだのは1964年。半世紀以上も前である。
 カンタベリー大学クラブの遠征で初来日した。主将でポジションはフッカー。
 カンタベリー州代表として170試合近くに出場していた。オールブラックスを選考するトライアルゲームにも呼ばれる。

 同志社大は前年度、第1回日本選手権で優勝していた。決勝で近鉄を18-3で破る。
 その強さが認められ、試合が組まれる。
 12月20日、OBも含めた全同志社で戦う。結果は14-15だった。
<この試合で日本のラグビーが見直され、同志社のニュージーランド遠征のきっかけとなった>
 惜敗が評価を高めたと『同志社大学ラグビー部百年史』には記されている。

 約1年後の1966年3月、全同志社が再び結成され、南半球に渡る。
 監督は岡仁詩。マネジャーは後年、日本協会の会長になる金野滋だった。
 坂田も参加する。当時は近鉄のウイング。日本代表キャップは16まで積み上げる。
 この遠征は、大学チームの戦後初の海外遠征となる。成績は4勝3敗1分。この時、ホクリーさんは世話人をつとめた。

 その後、同志社大の夏合宿に臨時コーチとして参加する。
 1978年から1987年まで5回来日した。この間、大学選手権3連覇が達成される。始まりは1982年度だった。
 スポーツライターの藤島大は解説する。
「同志社が強かったのは、ニュージーランドのラグビーを理解したから。ゆっくりしたモールと立つラックがその象徴だったよ」
 落とし込んだのはホクリーさんだった。

 モールによって攻撃に遅い速いのアクセントをつけ単調にさせない。ラックは相手を排除してこちらの倒れ込みを防ぐ。
 ホクリーさんはモールでのパックの大切さを説明する。その時、ボール保持者を片方の腕だけで浮かび上がらせる。

 監督や部長として、当時の同志社ラグビーを支えた岡とは盟友だった。ともに1929年生まれ。「ひとし」とファースト・ネームで呼んでいた。
 岡が世を去ったのは2007年。2年後、あとを追う。

 ホクリーさんの素晴らしさは、すべてがボランティアだった、ということである。
 金銭や物を請求しない。キリスト教徒として奉仕の精神が底にはあったが、それ以上に、同志社をはじめとするラグビーマンが好きだった。
 多年の実績を認められ、1999年には日本政府から「勲三等瑞宝章」を贈られている。

 その人望は没後、「偲ぶ会」(Memorial Service)に形を変える。
 逝去から3か月後の2009年4月10日、カンタベリー大で感謝状の贈呈があった。
 翌11日にはカンタベリー大学クラブとニューブライトンによる記念試合が行われた。どちらのチームにもホクリーさんは所属した。勝ったニューブライトンには、未亡人のマーガレットから記念盾が手渡される。

 同志社からは当時、監督だった中尾、「サシ」こと橋本茂樹(1979年卒)、そして坂田の3人が出席した。
 中尾はラグビー部ホームページに出張報告を残している。
<お世話になった日本のチーム、個人は数えきれないと思われますが、その中でも同志社に対する思いは、どのチームより強かった、と関係者からお聞きしました>

 2018年、同志社は2年連続して大学選手権に出場できなかった。
 55回の歴史の中で初めてである。「早慶明同」というくくりを過去のものにしないためにも、ホクリーさんというキウイがいたことを、心の片隅に置いて戦ってみてもいい。
 創部108年のプライドとともに。

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