国内
2017.04.07
育った横浜で育てる 関東学院六浦中学・高校 高山国哲コーチ
高山国哲(くにあき)は横浜に戻った。
青い海と緑の丘のある美しい港街で10年ぶりに生活を再開する。
「ロケーションは申し分ありません。また、この環境にいられることに感謝したいです」
現在32歳。関東学院大では巧みなパスや強さのあるCTBとして4年間を過ごした。
4月から大学付属である関東学院六浦(むつうら)のコーチになった。大学の3年上だった総監督・林広大を補佐し、女子を含めた中学、高校生約100人にラグビーを教える。
「中学生や女子は教えたことがないんで、逆に楽しみにしています」
平日は事務職員として勤務。午後3時からグラウンドに出る。
高山はコーチとして3年目を迎えた。これまで2年は立命館大でBKを見る。
主将だった高島理久也は振り返る。
「3年の春、僕自身『どうでもいいや』っていう気持ちになっていたのを、気にかけて、面談をしてくれました」
それまで使ってもらえなかったこともあって、SHは自暴自棄になっていた。その負の場所から救い出す。
「高島はコンタクトをバチバチやった後、個人練習でもバチバチやってました。きついことを続けてできる選手はそうはいません。彼には『おまえの強みはなんや? ファイトできるところと違うのか?』って話しました」
自分の長所磨きに専念した高島は、その年にリザーブメンバー入り。最終学年でレギュラーを獲る。この4月からは新社会人として、セコムでラグビーを続けている。
高山に対しては感謝が残る。
「選手目線でいろいろと考えてくれ、士気を高めてくれました。だからとても残念です。これからという時に辞められるなんて…」
大学が契約更改時に示した条件は、多くを望まない高山と開きがあった。
それもあって、サニックスで現役引退をした時から、声をかけてくれていた関東学院六浦でのコーチングを決意する。
高山は、大阪・布施ラグビースクールで4歳から楕円球に親しんだ。啓光学園(現 常翔啓光)では1年からレギュラー。2、3年時は全国大会連覇を経験。戦後の高校ラグビー界最多、同校の4連覇(2001〜2004年度、81〜84回大会)に貢献した。
進路は2年から強豪大学に決まっていた。しかし、3年春に右足首を脱臼骨折。全治半年の間に勧誘先は引き気味になる。その時、熱心だった関東学院大が浮上する。
啓光学園監督だった記虎敏和は当時話した。
「ケガをしたから、トーンダウンは仕方ない。でも、高山は『それなら、僕は関東にお世話になります』とすぐに言いよった。教え子ながら男だなあ、と思ったよ」
関東学院大では新人ながら公式戦出場。1、4年時は大学選手権優勝(40、43回大会)を果たした。U23までの世代別の日本代表もすべて経験する。
しかし、輝かしい経歴は7年間在籍した東芝では通用しなかった。
「最初の3年は試合に出してもらえましたが、残りの4年は出られませんでした」
スコット・マクラウド、冨岡鉄平、ナタエラニ・オト、仙波智裕、増田慶介ら時代が重なったCTBをしのげなかった。
それでも、日本代表でもあるチームの先輩たちは気にかけてくれた。
LO大野均には酒の席で言われる。
「おまえの頑張りは試合には結びつかないかもしれない。でも俺のためにはなっている」
SO廣瀬俊朗には諭された。
「愚痴を我慢しろ。そうすれば見えてくるものがある」
高山は悟る。
「ゲームに出ている人は愚痴ではなく、トレーニングをしているんですよね。結局、僕は自分にベクトルを向けていなかった」
2014年春、試合に出るためにサニックスに移籍。リーグ戦14試合中、前半戦を中心に6試合に出場して、引退を決めた。
「僕の強みは、高校、大学、社会人と優勝した強いチームにいられたことと、試合に出られないつらさを知ったことだと思います」
現役時代の悲喜こもごもが、自分自身のコーチング哲学を築き上げる。
心に響くのは、大学時代の恩師・春口廣の言葉だ。
「ラグビーはチーム、そして仲間作りだよ」
高山は言う。
「花園に出ることも、上を目指すことも、もちろん大事です。でも、僕はまずラグビーを好きになってもらいたいんです」
もっとも大切なのは向き合い方。
好きになれば、チームへの愛着がわく。やがて、その思いは勝負への執着を生む。所属する集団への愛と負けず嫌いは比例する。
新興だった関東学院大の6回もの大学選手権制覇は一連の流れを物語っている。
高山は「ハマ」での学びを、この地に生きる若い世代に伝えていく。
(文:鎮 勝也)