コラム
2016.07.05
いつもニコニコ鈴木さん
いつも笑顔でラグビーを教える鈴木博之さん
まいどー、浪速のおっさんでーす。みんな元気か? ご無沙汰、ご無沙汰。
今日は鈴木博之はんを紹介するわ。
この人はいっつもラグビー場におって、ニコニコしてはんねん。関係者入り口、スタンド、ほんで常翔学園についとったり。
でも、どんな時にも笑顔や。
「えー、僕なんかいいですよ。ラグリパなんかに載せてもらう人間やないですよ」
取材のお願いをした時の返事や。
謙虚さもこの人のウリやね。
シアトルにいるようこちゃんが女学生の頃に、鈴木はんの存在を教えてくれた。ようこちゃんは斉藤由貴世代。斎藤祐樹ちゃうでー。ああ、早見優もそうやね。ふるーい。
鈴木はんは大阪府協会と関西協会の普及育成の役員をしてはる。日本協会でタグラグビーもやってはった。
今年3月に還暦や。定年退職? 違うで。2007年に家業でもあった郵便局勤めを辞め、ラグビー一筋に生きてはる。親戚の花屋でバイトしたり、週一で幼稚園児にタグラグビーを教えてる。もうかれこれ10年。人生を楕円球に捧げてはるんや。すごいで。しかし。
家計を支えてんのは5歳年下で看護師の嫁・幸美(ゆきみ)さんや。
「そこはまったく頭が上がりません。好きな事ができるのは嫁のおかげです。友だちには、『おまえ、家帰ったら表札が変わってるんちゃうか?』とよくからかわれています」
放蕩し放題の落語家・桂春団治を支える嫁はんと同じやね。都はるみ、岡千秋はんの名演歌「浪花恋しぐれ」通りですな。
「ラグビー愛」っていうのでくくったら、鈴木はんは、今は亡きヤッさんと同じ匂いがするねん。
ヤッさん知らんか? 本名は安田紘三郎や。藤島大はんがラグビーマガジン7月号のスコットランド観戦ガイドに登場させはった。
京都の南座の前に土地を持ってたボンボンちゅう噂もあったけど、本人は工事現場のガードマンなんかでお金を稼いで、それをみなラグビー観戦につこたはった。試合の後はグラウンドに下りて、役員と一緒にラグビーポールを抜いたりなあ。
鈴木はんは言葉遣いは丁寧やし、控えめやから「白ヤッさん」。肌の色は黒やけど。
鈴木はんは、特に荒川博司はんに対する思いが強い。大阪工大高、今の常翔学園やな。それを全国優勝4回の名門にしはった人や。現監督の野上友一はんの先代や。
鈴木はんは癌になった荒川はんに尽くしはった。お見舞い行きまくり。手術の後の療養に、自分の実家のある和歌山・白浜をすすめはった。
「家には離れがあって、先生は写真でそれを見て、気に入っておられました。手術は1月で、『春になったら鈴木さんの離れで養生する』とおっしゃっておられたのに…。先生は3月1日に逝かれました。2001年のことです」
鈴木はんは初めて悲しそうな顔をした。今でも即、命日が出てくるところに亡き人に対する愛の深さを感じますわなあ。
「そりゃあ、荒川先生にはよくしていただきましたから」
鈴木はんの母校は和歌山県立熊野高校や。
えっ、コーダイちゃうの?
「はい。みんな工大のOBと思っています」
またニッコリや。
2年生からラグビーを始めた。それまでは陸上の短距離や。体育の授業で初めて楕円球に触れ、ボールを全員でつなぐところに、個人競技にはない楽しさを見つけた。
立正大を卒業後、大阪の郵便局で働きながら、ラグビースクールの指導員をやった。ほんで、大阪工大ラグビースクールに移った。1990年くらいの話や。そこで荒川はんに初めて会ったやな。
「荒川先生は僕みたいな人間に帽子をとって深々とおじぎをされました。なんて腰の低い、丁寧な人なんだろう、と思いました」
荒川はんも、ラグビーに対する鈴木はんの純粋さを貴しとしたはった。OB会メンバーに加えたんも当然ちゃ当然やな。
「100人以上が集まった総会で、『OBとして認める』と言ってくださった。ありがたかったし、うれしかったですね」
せやからOB連中も鈴木はんを大切にしはる。前におっさんが摂南飯食わしてもらいに、大学に行った時、鈴木はんも来てはった。
監督の河瀬泰治はんは言いはった。
「鈴木さんも一緒に食べて行って下さい」
現役時代、「怪物」と呼ばれていた元日本代表NO8が最敬礼するんやで。
やっぱりただもんやない。
鈴木はんにラグビーの良さを聞いた。
「チームワークですね。みんな1つになるでしょう。それがいいんです」
これから、どないしたいでっか?
「もっと底辺が広がればいいですね。ウチの田舎の和歌山みたいに、野球の盛んなところもあります。そういう場所にラグビーの楽しさを伝えたいですね」
子どものおらん鈴木はんにとっては、ラグビーをする児童はみんな我が子のようなもん。グラウンドで見かけたら、気軽に声をかけてやって下さいや。
目じりを下げて、ラグビーを教えてくれますさかいに。
(文:鎮 勝也)