コラム 2016.01.03

全国舞台で母校と戦う。東海大仰星・能坂尚生コーチ

全国舞台で母校と戦う。東海大仰星・能坂尚生コーチ

 2016年元日、花園8強をかけた相手は母校だった。
 26歳の能坂尚生(のうさか・なおき)は大阪・東海大仰星コーチとして、京都・伏見工と戦った。
 41-5。能坂は自身にとっての全国初対戦で、4月から「京都工学院」に校名を変える出身校を破った。
 恩返しにも淡々としていた。
「特別な思いはありません。昨晩はぐっすり眠れました。もちろん、僕は伏見に育ててもらいました。でも、いま一生懸命やっているのは仰星ですから」
 両チームは9月と1月の年2回、定期戦を組む間柄。赴任した4年前は、仰星のチームカラー青、伏見の赤と着ているシャツの色で首脳陣から、「どっちの人や?」とからかわれた。しかし、今ははっきりと帰属を知る。

 伏見工ではCTBだった。高3時の第87回全国大会では決勝に進出。東福岡(福岡)に7-12で敗れた。ミッドフィールドでコンビを組んだのは南橋直哉。FBには井口剛志(ともに神戸製鋼)がいた。
 志向が関東、教員だったこともあり、東海大の体育学部に進学する。
 大学4年の秋、受けた電話が進路を決定づける。見知らぬ番号は当時の仰星の監督、土井崇司のものだった。土井は転出による管理職昇進が迫っていた。そのため、コーチから監督昇格する湯浅大智の補佐役を探していた。
「大学の公式戦中にいいかげんなプレーをしたチームメイトをどなりあげた、という話を聞いたんです。能坂は普段から大人で、そういう行為とはかけ離れた人間と考えていたのに、いざという時には熱があった。これは採らないと、と思いましたね」
 土井は能坂の恩師で、当時伏見工監督だった高崎利明に筋を通すために電話を入れる。
 返事はふるっていた。
「それはいい話。よろしくお願いします。土井さん、あいつにラグビーをいっぱい勉強させてやって下さい。ほんで、いずれ京都に返してや」

 体育教員としての着任は2012年4月。直後の練習で土井は能坂の非凡さを知る。
 部員たちに「ゴールラインに向いて真っ直ぐにプレーしなさい」と説いた。インゴールに正対すれば一番力が出る。それを聞いた能坂は土井に近づいてささやいた。
「先生、真っ直ぐに向け、というのはへそを向けることですね」
 土井はうなった。
「真っ直ぐに向け、と言っても、体は斜めになって目だけで見ていることもある。能坂はその真意を捉えていました」
 高校のコーチ兼任で中学部の監督に据えた。毎日の高校との合同練習の中で、コーチとしての技量を磨く。
 監督就任4年目、2015年9月の第6回全国中学生大会では順位決定戦で将軍野中(秋田)を31-0で破り、同校を初の全国3位に導いた。

 能坂は言う。
「僕はどちらからも学ばせてもらっている。たまたま仰星に来させてもらったけど、むちゃくちゃ幸せです」
 伏見工では精神力の大切さを刷り込まれた。全国V4回の名門に仕上げた総監督の山口良治から続く教えである。決勝の東福岡戦前には檄(げき)が飛んだ。
「相手を大学生と思ってやれ」
 タックルとカバーを胸に秘めて戦った結果は、大差負けの予想を覆す5点差惜敗だった。
 仰星ではグラウンドを5つに割り、攻め方を決める「54321」から始まる理論を授けられた。
 両チームの特徴が体内で融合されている。

 1月1日、伏見工戦直前のウォーミングアップで選手たちに声をかけた。コンタクトバッグへの3人がかりのトリプルタックル練習時だった。
「立っている伏見のプレーヤーがいなくなるくらい入れ!」
 失点はわずか7。湯浅には感謝が残る。
「気合の入った指導をしてくれました。ありがたい」
 試合後、花園メインスタンド下のロッカールーム。伏見工はすぐに撤収する。「負けたチームはだらだらしない」。山口から続く美学を実践する。
 赤い一団が仰星ロッカー前を通る。あいさつのため、待ち受ける能坂。先頭を歩くゼネラルマネジャーの高崎はニヤッと笑って、パンチを腹に入れた。中列にいた監督の松林拓は間延びした口調で一言を残した。
「あーあ、やられてしもうた」
 2人が見せた一瞬の緩み。そのことこそが教え子の成長に対する最大の賛辞だった。

(文:鎮 勝也)

■写真:東海大仰星の能坂尚生コーチ(左)と伏見工の松林拓監督

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