コラム 2014.12.12

王国に潜んでいた「トゲ」。  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

王国に潜んでいた「トゲ」。
 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

 マオリ・オールブラックスの来日戦2試合も、はや昔話となり、季節は師走も半ばにさしかかろうとしている。とはいえ、あの秩父宮での第2戦について、ひと言だけご容赦を。
 確かにマオリの最後のラインアウトの、クイックロングスローと、右展開を保ったままのアタックラインは賞賛に値する。けれども、重要なのは、そのひとつ前のプレイだ。ジャパンXVが平常心でやり終えておれば、そこで試合は終われていた。あの場面、ジャパンのPKタッチキックからのラインアウト、HOのボール投入がノットストレートとなり、マオリのスクラムからあの大逆転へとつながっている。この経験と教訓をワールドカップに生かして欲しい。それでこその授業料である。

 本稿マオリ・オールブラックス関連の第3回目は、南アの人種差別政策とマオリラグビーへの影響について書く。話は2009年の年明け2月のことだ。同年はNZ協会が予算不足に陥って、結局、マオリ・オールブラックスは国際試合が組まれなかったのだが、年初段階では、6月始めに南アのソウェトで、スプリングボクスと対戦する未確定のプランがあった。
 ボクス側は、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズが遠征してくる直前の強化に、このマオリ戦を行おうと考えていたのだ。ところが2月半ば、突然、南ア協会側からNZ協会に、マオリ戦の中止が伝えられてきた。その理由は、「南ア協会の会長評議会によって以前に制定された次の決議、『南ア協会の代表チームは人種を制限し選考されたいかなる相手とも試合を行えない』に反するため」というものだった。
 これに対して、NZ協会とNZ政府は、即刻、南ア協会に対し、マオリは人種制約を目的に選考するチームではないこと、マオリの南ア遠征の実現に向けて、誤解を解く説明の機会を設けるよう要求している。

 NZ政府の人種関係府長官の公開された書簡から、反論の要点を抜き出してみよう。アパルトヘイト政策下の南アに存在したような人種差別はNZにはなく、すべての人種背景の異なる国民に、国、地域、地方のすべての代表チームの門戸が開かれている。マオリ・オールブラックスには誇るべき歴史があり、全国民の支持を受けている。NZにあっては、マオリだろうが、欧州人あるいは中国人のチームだろうと自由に代表チームを結成することができ、それは差別ではなく人種の多様性を意味するものである。マオリ・オールブラックスは前回1994年には問題なく南ア遠征を行っている、などの指摘である。

 それから1か月以上を経た3月末に、ようやく南ア協会は、相手国の協会が代表に認定したチームとの対戦は可能であると解釈を変更し、マオリ・オールブラックス戦にゴーサインを出したのだが、結局、スポンサーを見つけられずに試合そのものはお流れとなった。
 取り消したとはいえ、南ア側がマオリ・オールブラックスを人種差別呼ばわりするとは、史上最大級のジョークとしか思えない(本稿の後半部分を読んでもらえれば、意味がわかるハズ)。

 改革前の旧南ア時代には、異なる人種間のスポーツを禁じるなどの人種差別制度があり、その後アパルトヘイト(人種隔離)の法整備が行われるなか、マオリ選手は数々の困難に直面してきた。その予兆は、1921年に南ア・スプリングボクスがNZへ初遠征し、NZマオリと対戦して辛勝(9−8)した試合のあと、南アの特派員チャールズ・ブラケットが自国へ送ったレポートの漏洩した電文のなかに見てとれる。
 中身を要約すると、「NZネイティブチームとの対戦が公式試合扱いされただけでも、十分不快なのに、数千人の欧州系観客が、同じ人種が負かした側でなく、相手の有色人の集団を応援する様子には、正直ボクスの面々も打ちひしがれていたよ」というものだった。
 そして、1928年にオールブラックスが、初の南ア遠征を行うのだが、南ア首相からNZ政府に対し、白人支配下の南アでマオリがプレイすれば混乱が起きるので、遠征メンバーからマオリを除くようにとの要請が伝えられていた。NZ協会はこれを受け入れ、遠征メンバーからマオリの伝説のFBジョージ・ネピアやSHジミー・ミルらを除外してしまう。

 同様に、1949年、1960年のオールブラックスの南ア遠征でもマオリ選手はメンバーから除外されている。’49年は当時実力随一のSHヴィンス・ベヴァン、LOロン・ブライアーズ、CTBジョニー・スミスらが、’60年はFBパット・ウォルシュら、選ばれてしかるべきマオリ選手が除かれたのだった。
 ’60年の南ア遠征の際には、NZ国内に『ノー・マオリ、ノー・ツアー』を合い言葉に、遠征の中止、NZ協会と南ア協会の関係断絶を迫る抗議運動が初めて大規模に行われた。こうした状勢の変化もあって、’60年が、マオリ抜きのオールブラックスによる最後の南ア遠征となったが、問題は尾を引く。
 南アの人種差別に対する世界の批判が厳しくなった結果、1966年、NZ協会は翌年に予定されていた南ア遠征には、白人だけのオールブラックスを編成しないことを発表している。結局、南ア協会との交渉がまとまらず、’67年の遠征は中止となっている。

 やがて、改めて1970年のオールブラックスによる南ア遠征計画が持ち上がり、これに対し、1969年にはNZに『ホールト・オール・レイシスト・ツアーズ(人種差別遠征阻止を)』を団体名とする抗議集団が結成された。参加者の多くはパケハ(白人)だった。
 世論の変化を受けて、南ア政府は、名目『名誉白人』扱いのマオリを加えた人種混合チームの受け入れをNZ側に伝えた。この’70年の遠征チームにはSHシド・ゴーイング、CTBバフ・ミルナー、SOブレアー・ファーロングの3人のマオリとサモア系のWTBブライアン・ウィリアムズが初めて南アへと渡った。一方で、南ア側からは、マオリの人数はできるだけ少なく、なるべく色白な者を、という要請があったという話が伝わっている。

 次いで、1973年には南ア・ボクスのNZ遠征の計画に対し、NZのノーマン・カーク首相は、ボクスが実力で選考されていないという理由から、遠征禁止を決定し、スポーツへの政治介入に反対するラグビーファンとの間で悶着が起きている。
 1976年、今度はNZのマルドーン新首相が、オールブラックスの南ア遠征を許可し、5人のマオリ選手とサモア系のB・ウィリアムズが参加した。この遠征がホワイトルール(人種の制限付き)による最後の遠征となった。覚えているだろうか、’76年のモントリオール五輪をアフリカの21か国がボイコットした原因となったのが、このオールブラックスの遠征強行だったのだ。
 翌1977年、マオリ・オールブラックスが計画した南ア遠征は中止となった。

 長きに渡りNZラグビーのタブーになっていた、マオリ抜きのオールブラックスによる南ア遠征問題に、新たな動きがあったのは2010年、最初の公式マオリ・オールブラックスの誕生から百年後の記念の年のことだった。南ア政府のスポーツ大臣および南ア協会から、’28年、’49年、’60年の南ア遠征からマオリ選手を除外したことの誤りについて謝罪がなされ、同様に、NZ協会からもマオリ選手とマオリ協会に対して謝罪が行われている。
 かくして、ラグビー王国に潜んでいた「トゲ」は解決へ向けて一歩前進した。マオリ選手に対する正式な謝罪は拒んでいるNZ政府だが、マオリ・オールブラックスの文化や歴史的意義を守るために、必要な際には、すばやく行動し、支援を惜しまずに応えているようである。

【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。

(写真:2014年秋、来日したマオリ・オールブラックス/撮影:松本かおり)

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