ヒデキ、走り続ける。 田村一博(ラグビーマガジン編集長)
50年が経った。
10月10日、1964年の東京オリンピック開幕から半世紀が過ぎたというニュースが、各メディアで盛んに紹介されていた。
同五輪の最終日だった10月21日、エチオピアのマラソン選手であるアベベが史上初めて、2大会続けて金メダルを獲得した日に筆者は産まれた。亡くなった父も感動したのだろう。当日生まれてきた息子に、「五輪男(いわお)」と名付けようとしたそうだ。
その案が採用されていたら、違った人生になっただろうな。
オテニリ・ランギランギ。NECグリーンロケッツの熱血トンガン、通称ニリ・ラトゥの名前である。神に仕える者という意味を込めて、父が名付けたそうだ。大東大にはWTB/FB淺井斗頼(とらい)がいる。ラグビーをやっていた父が名付けた。息子はソフトボールと野球に熱中していたが、鹿児島実業高校進学と同時に楕円球の世界に生きることを決断した。
セコムラガッツの主将を務める今村六十の名は「むそう」と読む。1986年生まれの28歳。五黄の寅とされる年の生まれだ。『五黄の寅』(ごおうのとら)とは36年に一度巡ってくるもので、その年に生まれた者たちは気が強いと言い伝えられている。今村の父は、それを60年に一度のものと勘違いし、「六十」と名付けた。間違っちゃったけれど、立派なリーダーになりました。
そのラガッツで、35歳にしていまだ走り続けている男がいる。WTBの石橋秀基は入社13年目。あの山賀敦之、「ラグビーの神様」渡邉庸介に次ぐベテランで、調布支社に勤務する勤勉な営業マンだ。
10月12日のトップイースト、対 横河武蔵野アトラスターズ戦(横河グラウンド)。5-34と敗れたチームの中で、唯一のトライを挙げたのがこの人だった。前半8分。SO小野木匠のキックパスを受けて、インゴール左スミに飛び込んだ。業務とラグビーに必死に取り組み続けるラガッツを応援するファンが沸いた。
東北高校、東北福祉大学と、ラグビーの世界ではあまり知られぬ道を歩んできた石橋は宮城県女川の出身。
「中学時代はバイク、ケンカ…悪いことはひと通りやりました。高校は東北高校ラグビー部出身の父が、自分の先輩が監督をやっているから、そこへ行け、と。更生するためでした(笑)」
「関東の大学はこわいというイメージがあって」地元の大学へ進学した。
大学3年時、筑波大学と大学選手権への出場権をかけて戦った(北海道・東北王者と関東の対抗戦かリーグ戦の5位が戦っていた)。その試合に足を運んでいたセコムのスカウトの目に止まり、声をかけられる。筑波大のFBを視察に来ていたのに、石橋は思いきりのいいランニングでその目を自分に向かせた。
東日本社会人リーグに所属していたセコムは、2003年に発足したトップリーグに加わる。叩き上げの好ランナーは、陽の当たる道を歩んできた選手たちを相手に堂々と渡り合い、いくつものトライを決めた。学生時代は経験したことのない大観衆の前でのプレー。それはそれは心地よかった。
しかしチームは5年前、社が強化を中止したのを機に徐々に下降線をたどる。仲間は減り、ラグビー活動の優遇がなくなる。21時開始(練習終了は23時!)の練習にすら間に合わぬ者たちが続出するのが現在の活動状況。夜勤や24時間勤務の後に駆けつける者もいる。往時の恵まれていた頃との差は大きい。
無名校から入社し、華やかな舞台も経験した。30歳を目前にした時期に突きつけられた強化中止の現実。そして現状。「辞めるタイミングは何度かあったように思う」と振り返る。他チームから声がかかったこともあったが、でも、石橋はいまもラガッツのレギュラーとしてピッチに立ち、走り続けている。
苦楽をともにした仲間が好きだ。応援してくれている人々に感謝している。多くの観客が見つめたトップリーグの頃とは違い、知人や家族が多くを占める最近の試合。でも一人ひとりの顔が見えるようになって、大観衆の前でプレーするときより力が入っている自分がいる。
2009年の2月。会社が強化継続断念と決めたとき、病院のベッドの上にいた(痛めた膝の手術)。
やがて仲間たちと会い、自分たちの将来に思いを巡らせた。腹を割って話し、他チームへ向かう者たちの手を握ったことも何度も。自身も悩んだが、気持ちは狭山のグラウンドから離れなかった。そこは、自分を一人前にしてくれた場所だ。応援してくれる、ラグビースクールの子どもたちもいる。
2011年の3月11日も入院していた(痛めた肩の手術)。
故郷を東日本大震災が襲った。女川の実家、営む水産加工工場は流され、祖母も亡くなった。ラグビーどころではないと思った。
1週間後に故郷へ向かう前、自宅に戻る。チームの仲間や、全国に散らばっているOBたちから山のような支援物資が届いていた。このチームでラグビーをやり続けてよかった。やり続けていこう。涙と勇気が出た。
だからいまも走り続ける。熱くて、愉快な先輩たちやチームメート。「実力で追い抜かれるまでは(定位置は)渡しませんよ」と言うけれど、頑張り屋の後輩たちの姿には、実はいつも頭が下がる思いでいる。
いつまで走り続けるのかを問えば、意外な人の名が返ってきた。
「キンさんがやっている限りは辞められません」
日本代表の宝、大野均である。
「実は一歳違い(大野が年上)で、東北の大学リーグなどで何度も戦っているんですよ(大野は福島の日大工学部出身)。大学時代はこちらが上位リーグで、あちらは下部リーグでした。戦えばいつも僕らが勝っていましたから(笑)、キンさんがあんな選手になって、いつも『俺もあれくらいの選手になれる可能性はあるんだ』って勇気をもらっていましたから。だから、あの人がやっている限りは(やりたい)。そして、トップリーグにも同年代、年上の選手たちがいる。勝手にライバル視して、負けないぞ、と(笑)」
「ヒデキ」の名は、生まれた頃に人気絶頂だったスター、西城秀樹さんにあやかって両親がつけた。
震災の年からラガッツが始めた、石巻でのラグビー教室。そこで4年続けてリーダーを務める石橋は、子どもたちの人気者だ。時間を見つけては指導に足を運ぶ狭山ラグビースクールにもファンは多い。人懐っこい男の周りには、人の輪がいつもできる。
その名に込められた思いのように、ヒデキは愛される人になった。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。