コラム 2014.08.28

ギョウザ耳列伝 vol.2 廣瀬佳司

ギョウザ耳列伝 vol.2 廣瀬佳司
猛タックルで鳴らしたスタンドオフの努力の結晶 「下手くそな証拠ですから」

廣瀬佳司
(大阪府立島本高校―京産大―トヨタ自動車。現 トヨタ自動車監督)

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「これまで会ったラグビー選手で、だれのギョウザ耳が印象に残っていますか?」
 この連載トップバッターの桜庭吉彦にインタビューの最後にそう聞いたら、「すごかったのは…」とのコトバに続く名前は意外にもバックスの選手だった。
 世界レベルのプレースキックで日本代表の一時代を彩った“ゴールデン・ブーツ”、廣瀬佳司である。ただいまトップリーグのトヨタ自動車の監督をつとめている。
 その桜庭のコトバを伝えたら、41歳の元バックスは恐縮した。
「光栄ですね」

 いつも謙虚である。誠実である。では、と耳を拝見すると、たしかに左耳がひどくゆがんでいた。いびつだ。右耳は何ともない。
 どうしてですか?
「タックルの練習ですね。高校2、3年のとき、腫れ始めて、大学のときにガッチリ固まったみたいな感じです」
 小2でラグビーを始め、地元の島本高校に入学した。「ディフェンスが悪いと試合に出してもらえない監督だった」ため、ひとり居残りのタックル練習に励んだ。
 1990年頃、ふつうのタックル用バッグは中心部に竹が入って、ボロ布で包んでいるようなものだった。表面の布は堅く、ヘッドキャップをかぶっていても耳がバッグにすれると痛かった。
「タックルが下手だったので、練習するしかなかったのです。ひとりでタックルバッグにばちばちいっていました。左でしかいかなかったので、左耳がこすれて内出血してしまったんです。熱持って、ジンジンしていました。帰りの電車で耳に氷のうをあてて、次の日までに熱を冷ましていました」

 でも病院に血を抜きにはいかなかった。面倒くさいというより、練習を休むのがイヤだったからである。
「血が固まるときが一番痛いんです。夜、寝返りがうてない。よく耳の痛みで目が覚めていました。でも、なんども内出血を繰り返して、血が固まったときはもう、痛みがなくなりました。ただ耳が上に割けやすくなって、テーピングでぐるぐる巻いていました」

 痛みを我慢してタックル練習を重ねていたら、いつのまにか、猛タックラーとなっていた。ポジションがスタンドオフ。京産大に進学する。タックルはぜんぶ左で入った。
「ほとんどが逆ヘッドのタックルです。逆ヘッドのほうが体重をうまく相手に載せられたので。ぼくの場合、逆ヘッドの側に走ってくれた方がうれしかったですね。ふつうのタックルだとからだがちっちゃいからどうしても飛ばされてしまうのです。だから逆ヘッドでしっかり杭を打つみたいな感じでした」
 逆ヘッドのタックルが多かったからか、首のケガにも悩まされた。当時、170センチ、70数キロ。このサイズで堅いディフェンスを誇り、キックの安定感も随一だった。1994年から日本代表に選出され、キャップは「40」を数えた。

 そういえば、トヨタ自動車の入社2年目、ニュージーランドのオークランドのクラブにラグビー留学した際、チームメイトからよくこんな質問を受けていたそうだ。「どうしてスタンドオフなのにカリフラワーなんだ?」と。
 ギョウザ耳は、ラグビーをやってきた証である。そうつくづく思う。
「現役引退してラグビーを離れることもあったけど、鏡で耳を見たら、おれはラグビー選手だったんだなあ、と懐かしくなりました」
 猛タックラーの勲章といえるのでは? そう聞くと、廣瀬は右手を目の前で左右に振りながら、顔をくしゃくしゃにしてわらった。
「違いますよ。これ、下手くそな証拠ですから。こっち(左)でしかタックルにいけないのはダメでしょ。いま、こんなタックルの指導はしませんよ」
 猛タックルで鳴らしたスタンドオフのギョウザ耳、それは不器用な努力家の証でもあるのだった。

(文・松瀬 学)
2014年8月28日掲載

【筆者プロフィール】
松瀬 学(まつせ まなぶ)
ノンフィクションライター。1960年生まれ。福岡県立修猷館高校、早稲田大学のラグビー部で活躍。早大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク支局に勤務。2002年に同社退社後、ノンフィクションライターに転身。人物モノ、五輪モノを得意とする。『汚れた金メダル 中国ドーピング疑惑を追う』(文藝春秋)でミズノスポーツライター賞受賞。著書に『日本を想い、イラクを翔けた ラガー外交官・奥克彦の生涯 』(新潮社)、『ラグビーガールズ 楕円球に恋して』(小学館)、『負げねっすよ、釜石 鉄と魚とラグビーの街の復興ドキュメント』(光文社)、『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』(扶桑社新書)など多数。

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