【田村一博コラム】 アベシンさん。
なんだか好きな響きなのである。
「先輩」
年上というだけではない。そこには尊敬がある。愛着がある。ずーっとかかわっていたい人を、そう呼びたい。
『TOKYO SEVENS 2014』が終わった。3月22日、23日に秩父宮ラグビー場で開催されたセブンズ最高峰の大会は、フィジーがカップトーナメント優勝を手にして幕を閉じた。死闘となったファイナル。相手は南アフリカだった。準優勝チームはカイル・ブラウン主将を中心に力強いプレーでフィジアンマジックに対抗したが、わずかに及ばず。2年続けての東京制覇は成らなかった。
大会の数日前、セブンズ南アフリカ代表は本郷高校のグラウンドにいた。高校生を相手にラグビークリニックを開催するためだ。今回から同代表のウェアをサポートするアシックスの協力もあって立派な催しとなった。しかし、過去2年は手作り感あふれるイベントだった。いつも、選手と高校生たちの距離感が心地よかった。
そのイベント後だった。ブラウン主将へのインタビュー時に、「先輩」が登場した。今季就任したニール・パウエル ヘッドコーチについて質問したときだ。主将の表情が崩れた。
「ニールは先輩なんだ。僕がこのチームに加わったときはまだプレーヤーで、プレーのことだけでなく、いろんなことを教えてくれた。本当にいろんなことを、ね(笑)。髪がグレーだからずいぶん年上に見えるだろうけど、ホントはまだ若いんだ。ハハハ」
となりでその話を聞いていた指揮官も笑顔。後輩を見つめる目だった。少人数で世界中を転戦するセブンズの世界では、チームの結束がとても重要。このチームが優勝争いに加わっている理由がよく分かった。
先輩、後輩の間柄っていいな。あらためてそう感じた3月の午後。そのグラウンドには、筆者の先輩もいた。
阿部慎太郎さん。大学のクラブで3学年上だった。埼玉県立浦和高校ラグビー部OB。大学でもラグビーを続け、SHとして活躍した。堅実なプレーで信頼を得て、パスの軌道がいつもきれいだった。あれから約30年が経ったが、実直な振る舞いは以前のままだ。
通称アベシンさん。いまも会うたびに多くのことを教えてくれる先輩は、一度は後輩たちに別れを告げた。僕らは泣いた。こちらが大学2年になる直前だった。
卒業直前、先輩は旅行で北海道に向かい、雪山に登った。その日知り合った仲間と大雪山の頂上を目指す。他のふたりは途中で諦めたが、体力に自信のあったSHは単独行動に出たそうだ。そして迷った。不本意ながら遭難した。テレビでも、『大学生遭難』のニュースが流れた。
その知らせが、春合宿中だったクラブの後輩たちのもとにも届いた。朗らかだったアベシンさんが…。当時のキャプテンがみんなを集め、状況を話した。姿を消してから2日が経っていた。天候や状況から考えて、「もう無理だろう」という内容の報告だった。
キャプテンが沈痛な表情で告げた。生存への僅かな望みと、お世話になったことへの感謝の気持ちが入りまじった複雑な心境。みんなで目を閉じた。
そこまでみんなを悲しませておいて、先輩は無事に帰ってきた。迷った日になんとか沢にたどり着いたアベシンさんは、遭難1日目はもう一度山を登り、予定していたルートで下山しようとした。でもダメだ…。2日目は、沢を下り続けた。そして、道路にぶつかった。
バスが走ってくるのが見えた。必死の思いで助けを求め、バスを止めた。乗り込んだ。そうしたら、クラブの同期の顔があった。
「どうしたんだ、お前」とアベシンさんが言う。チームメイトは、「お前こそ、どうしたんだ。遭難したと聞いたから、東京から駆けつけたんだぞ!」。感動的も、滑稽な生還シーンだった。
20代前半でみんなに別れを告げたと思った人は、実は誰より生命力が強かった。だからいまも、足繁くラグビー場に足を運ぶ。仲間と酒場にくり出す。
アベシンさんは、この遭難の話を自分からしたことがない。数年前に再会したとき、そう言っていた。多くの人に迷惑をかけた。心配をかけた。そんな反省の気持ちから、語りたくなかった。
でも、ある後輩に言われて、気持ちがやわらいだことがあるそうだ。
「『自分の先輩に、そういう経験を持った人がいる、というのが誇らしくて、嬉しくて』と言われたことがあるんだよ。なんか、ホッとしたんだよね」
優しくて、奥ゆかしい先輩らしい感覚だな。
セブンズ南アフリカ代表の高校生クリニックは、実は、阿部さんの行動力がすべての始まりだった。
2007年、フランスをホストユニオンに開催されたワールドカップ。強固なディフェンスを武器に南アフリカが優勝した。当時、会社の同じビルに同国大使館があった阿部さんは、優勝が決まった翌日、花束を手に大使館を訪れた。ご近所さんのシアワセを祝いたい。思いをストレートに行動に移しただけと言うが、そうそうできることではない。祝われる方は、それがなにより嬉しいんだよね。
その行動は大使館のスタッフの胸に響いた。ラグビー大国だ。楕円球熱にあふれる人がいた。一等書記官であるレイ・メドハーストさんと阿部さんとの交流が始まる。両国ラグビーの距離がいっきに近づいた。
トップリーグのファイナルに大使が足を運ぶようになった。いくつかのチームが南アフリカに選手を送る。その流れの中で始まったひとつが、先に紹介したクリニックだ。きっかけを作った人は、いつも平日の日中におこなわれることもあり、3回目の今年、初めて高校生たちの笑顔を目の当たりにした。
日本を離れたいまも阿部さんと交流を続けるレイさんが言ったことがある。阿部さんと知り合って、南アフリカラグビーの父、ダニー・クレイブン博士の言葉を思い出したそうだ。
「The game is bigger than man. No player is bigger than the game.」
すべてはラグビーがあって、そのまわりに人が集うのである。ラグビーがなければ何も始まらなかった。
レイさんは、阿部さんから始まった日本でのストーリーはまさにそれ、といつも感謝、感激していた。ラグビーがあったからつながった縁。その先に、なんの見返りも求めない人がいたから、さらにその周辺の多くの人が賛同してくれた。
クリニックがおこなわれる本郷高校グラウンドの隅っこに、功労者がいることを知る人はほとんどいなかった。でも、それでも、ただニコニコ笑っていられる先輩が好きだ。変わらぬ人柄が、後輩にとって誇りであり、嬉しかったな。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。