国内 2014.03.20

【コラム】 『ラグビーマガジン』をぶっ潰す!

【コラム】 『ラグビーマガジン』をぶっ潰す!

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 十数年前、某ラグビー雑誌の編集部で働いていたことがある。ハッキリ言おう、『ラグビーワールド』だ。1999年夏頃に中途採用で入社したのだが、当時、名刺を差し出すと露骨に嫌な顔をされた。ある人気大学ラグビー部に取材の申し込みをしたとき、「ワールド? おたくからは取材してもらわなくて結構です」と、生意気な学生主務に断られたこともある。その雑誌が嫌われていた理由は、よく知らない。いや、のちにいろんな人から、昔いろいろあったことを聞いたけど、「オレの知ったこっちゃねぇ」と腹立って、よく覚えていない。

 26歳だったボクを拾ってくれたのは、同じ歳の編集長だった。愛称、ナカジ。名門の國學院久我山高ラグビー部出身。芯の強い働き者で、とにかくラグビー界を、特に高校生たちを応援したいと熱く語るいい人だった。ニュージーランドで1年間、南アフリカで3か月ほどラグビー観戦行脚をして帰国し、観戦記のファイルブックを2冊抱えて上京したボクは、本当はベースボール・マガジン社の『ラグビーマガジン』に入りたかったのだけれど、面接の練習が必要だなと先に『ワールド』編集部を訪ねたら、人手が足りず頭を抱えていた若き編集長は、ボクを即採用することを決めてしまった。運が良かったのか悪かったのか。もしいま再会して酒を飲めたら、互いに「あれが悪夢の始まりだった」と言うに違いない。

 ワールド編集部にはナカジのほかに、カワイイけど気性の激しい20代前半の女性(愛称おにぎり)がいて、情に厚い落武者のような風貌のオッサンカメラマンも時どき作業を手伝ってくれた。
 とにかく人が足りないから、いろんな仕事をさせてもらった。入社してすぐに関わったワールドカップ特集号で、巻頭カラーページを担当したのはボクだ。イケメンラガーマンを上半身裸にする別企画は嫌だったけど、経験がない人間に文句を言える権利はなく、素人同然の未熟者も制作に携わっているから、売れる雑誌にはならなかったのかもしれない。

 あるとき、ご機嫌ななめのカメラマンが発した言葉はいまでも覚えている。昔からラグビー大好きだった彼は編集部とは少し離れた机で『ラグビーマガジン』を読んでいて、「なんでよそのラグビー雑誌を読んでるんスカ!」とからかったボクにこう言った。

 「誰がワールドなんか読むかよ。中身、スカスカじゃん。ラグビー情報は、ラグマガさえあれば十分」
 腹立った。いつも優しいオッサンだけど、落武者ヘアーを引っ張ってやろうかと思った。
 「ふざけんな! なにがラグマガじゃ! あんなもん、ラグビーの教科書やん。あんな古臭くて堅苦しいマニアックな雑誌を読む奴がよっぽど変人やろうが」
 ボクはムカムカして、心のなかでそう叫んだ。そのときは9割本気、1割が妬み。入社したての頃、大手出版社から移ってきた出版局のお偉いさんに「雑誌っていうのは、1回読んだら捨てるくらいのものでいいんだよ。たかがラグビー雑誌だろうが。新しい企画をどんどんやって、気軽に手に取ってもらえる雑誌を作れよ」と言われ、その意味を十分に理解していなかったことも悪影響したのかもしれない。

 いずれにしても、ボクはそのときから、「打倒ラグビーマガジン」を心に誓った。

 廃刊寸前だった『ラグビーワールド』。でも、旧体制から編集部を丸ごと引き取って面倒をみてくれていた在日コリアンの出版社社長は、ボクたちを見捨てなかった。小さい会社だったから給料が2、3か月遅れて支払われることも度々だったが、社長は、徹夜続きで泡を吹いていたラグビー編集部によく顔を出してくれて、カニを甘辛く漬け込んだ韓国料理のケジャンを差し入れてくれたりした。
 「がんばってるね。きっといい雑誌ができるよ。楽しみにしてるね」
 社長はいつも、味方でいてくれた。

 そんなこんなで、月刊誌から季刊誌に変わっていたラグビーワールドは、2000年春に隔月刊誌にリニューアルすることになった。
 表紙から誌面すべて、有名デザイン事務所が関わるようになった。新しいことをやろうとみんなで誓い、ボクはまだ未熟者だったけど、川淵三郎Jリーグチェアマン(当時)や日本ラグビー協会の金野滋会長(当時)に単独インタビューをさせてもらった。有名なラグビーライターのほとんどがラグマガに書いていたから、自分が尊敬する人気スポーツライターたちに手紙を書き、自腹で菓子折りを買って訪ね、コラムを連載してもらったりした。
 ラグマガに執筆しているラグビー博士の小林深緑郎さんには遠く及ばないけれど、好きな海外ラグビーのページ作成は一段と熱が入った。いま、ラグビーワールドを読み返してみると、文章や構成は雑だけど、おもしろそうな記事はいくつかある。

 でも、リニューアルから数年も経たぬうち、ワールドは終わってしまった。紅一点の“おにぎり”は社内で別部署に移動し、ボクは「ラグマガの弱点である南ア情報を現地から発信します」と言って退社して南アフリカに渡ったけれど、数か月後、ラグビーワールド編集部は丸ごと新たな出版社に面倒をみてもらうことになり、数冊出して廃刊になったのだ。

 ラグビーマガジンをぶっ潰すことはできなかった。勝手に噛みついて、勝手に完敗。

 そして、いまボクは、ラグビーマガジン(ベースボール・マガジン社)が運営する『RUGBY REPUBLIC』で仕事をしている。2003年、ラグビーワールドが廃刊になり、いろんなこともあって南アで引きこもっていたボクのところに、ラグビーマガジンの編集長がわざわざ国際電話をくれて、ワールドカップ展望号に記事を書いてみないかと誘っていただいたのが付き合いの始まりだ。
 いまも、寝る間もなくラグビーマガジンを一所懸命作っているこの人は、ボクにとって仏様だ。怒られたことはないけれど、怒ったら絶対怖い。顔は優しいカバのようだけど、カバは動物界最強らしい。「昔、“打倒ラグマガ”で燃えていたんです」と告白したとき、ニンマリ笑って酒をたらふく飲ませてくれた。いい人だ。本当に。この編集長を慕う最高のスタッフが、実は少数精鋭でラグビーマガジンを作っている。

 1972年の創刊以来、多くのラグビーファンに愛され続けてきた『ラグビーマガジン』は、2014年3月24日発売号で通算500号だ。おめでとうございます。教科書としても使えるような、読み応え十分のおもしろいラグビー雑誌だ。全スタッフの力作。読んだらポイ捨て、なんてできるわけがない。

 噂で、ボクを拾ってくれたラグビーワールドの元編集長も、波瀾万丈あったが、いま、ラグビー界で仕事をしていると聞いた。嬉しい。
 こんなことを書いたら鼻で笑われるかもしれないけれど、あのときの『ラグビーワールド』は『ラグビーマガジン』を少しは刺激したと信じたい。ボクらは純粋に、ラグビー界を盛り上げたかっただけだ。

(文・竹中 清)

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