コラム 2013.08.08

ラグビー場がのどかだった頃  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

ラグビー場がのどかだった頃
 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

 筆者は昭和30年代に、父に連れられて、東京・秩父宮ラグビー場にはよく通った。<渋谷>から営団地下鉄(現在の東京メトロ)に乗って、ふた駅目の<外苑前>がラグビー場への最寄り駅であるのは今と同じである。ただし、地上への出口は確か一か所のみで、現在の球場側改札を出てすぐ右手にある折り返しの階段がそれである。そして、階段を上りきった出口は、青山通りから10メートルほど奥まった路地の中にあったのだった。



 出口のすぐ右側に果物屋があって、いつも店頭にバナナが売られていたものである。3本百円の価格はかなり長い間変動が無かったように記憶している。これは、今の値段に置き換えると、おおよそ一本が3百円〜5百円に相当する高価なものだったのだ。1964(昭和39)年の東京オリンピックを前に、青山通りは18メートル拡幅されたそうで、駅の階段出口は現在のように、通りの歩道に接する形になり、おそらく、その時に、青山通りの反対側への地下道と階段出口が整備されたのだと思う。



 当時の秩父宮ラグビー場は牧歌的な雰囲気に満ちていた。メインスタンドの最上段に記者席があった。素通しなので、記者の声がその下の観客席に良く聞こえた。各々、試合前になると電話を設置して、そのあと出場メンバーを口頭で社に伝える「たんぼのた<田>に、さんぼんがわ<川>……」などと、いかにも専門職らしき声が響いていたものである。



 メンバーを電話で口述する声が飛び交うと、試合開始が迫ってきたという緊張感が高まるはずなのだが、子供だった自分は、正直いって、「ラーメン1丁、炒飯3つ」などと、記者が出前を注文する電話の声の方が気になって仕方なかった。



 そしてしばらくすると、白い割烹着姿のお兄さんが岡持を持って、ひょいひょいとスタンドの階段を上って来て、記者席に出前の品を届けるという光景が出来するわけで、自分はいつもそれを横目に眺めては羨ましく思っていたものだった。



 今年6月29日に享年80で亡くなった佐野克郎さんは、その時代に、日刊スポーツの記者として最上段の席にいて健筆を揮っていた一人である。1998年のシンガポールでのアジア大会兼 ’99年ワールドカップ・アジア予選の期間に、佐野さんから出前にまつわる話を教えてもらったことがある。



 「記者席の出前はみっともないからやめろって、コバチューさん(当時関東協会書記長の小林忠郎さん)に叱られてね、止めになったんだよ」、と佐野さん。自分はある興味から出前のラーメンをどの店に頼んでいたのかを尋ねた。



 「増田屋さんだよ、蕎麦屋の、今もあるでしょ」



 これは以前、ラグマガの別冊ムック本に書いたことがあるのだが、あるとき、冬暮れのガランとした観客席に座っていた父が、やってきた出前の兄さんにラーメン2丁を頼んだことがあった。割烹着の兄さんの「ハイ」という返事は確かに聞いたのだが、結局、ついにラーメンは届かなかった。まあ、前金を渡したわけでもなく、損も何もないわけだが、遠い日の空腹の記憶は、長く頭の隅に残っていたのだった。



 のどかな時代のラグビー場を知る名物ラグビー記者だった佐野克郎さんは青山学院大ラグビー部から記者を経て、ラグマガ誌上でも大活躍された。ご冥福をお祈り致します。


 



 


【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。


 


 


(写真:1971年に秩父宮ラグビー場で行われた日本代表×イングランド代表戦。3-6の大接戦だった)

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