いぶし銀のラグビー人生 竹中 清(スポーツライター)
華のあるスター選手ではなかったかもしれない。日本代表にはなれなかった。何か記録を残したわけでもない。しかし、泥臭く、激しく何度も体を当てにいく彼のスタイルは、確かに誰かの心を打った。「オレの大好きな選手だったんだ」。ファンや関係者からそんなふうに評されて、引退していく者は幸せだ。今春、コカ・コーラウエストレッドスパークスのジャージーを脱いだ徳住茂久のことだ。愛すべき男の、少し変わったストーリー。
10歳の頃から楕円球を手にしたが、ラグビーの才能で進学や就職がどうにかなるようなダイヤの原石ではなかった。長崎県大会で3回戦進出がやっとというレベルの地元の高校を卒業し、大阪にある、ラグビーとは関係のないアイスクリームの卸会社に就職した。そしてクラブラグビーの強豪、六甲クラブで少しだけプレーしたが、週末は仕事でほとんど練習に行けず、どうしてもラグビーをやりたいがために1年で会社を辞めてしまう。故郷に戻り、三菱重工長崎の練習に参加させてもらった。が、入団には至らず。定職を持たない、ハタチ前の夢追い人は決意する。ラグビーへの思いを断ち切るために、本場ニュージーランドに行って、最後、思いっきりやってみよう。
しかし、父親に言われた。「オマエがラグビーでメシ食って行けるわけねえだろ!」。
親は子どもの夢を応援したいと思う反面、堅実な道を歩んで幸せになってほしいと願うからこそ、ときに厳しい言葉をぶつけるのかもしれない。が、息子は気骨ある男だった。「見返してやらなイカン」と心に火をつけた。反対を押し切り、援助もなく異国の地へ。
貯金を使い果たしたあとは現地の日本食レストランで働き、ノースショアクラブで2シーズン、懸命にプレーした。毎日の努力が実り、なんと、21歳以下のノースハーバー地方代表に選出された。
「嬉しかったですね。まさかという感じでした」
スーツ姿の徳住がガムシャラだった青春時代を振り返る。
「当たりの強さや、ビールを飲む量はそこで鍛えられました(笑)。一般のトンガ人らと一緒にプレーしてたんですけど、有名な選手でもないのに、すごい当たりをしてそのまんま走り抜けるような奴がゴロゴロいた。『ウォー! 何だ!?』という刺激をたくさん受けました」
そして、2年目の挑戦も終わりにさしかかり、いよいよ帰国が間近に迫っていたある日、転機が訪れる。ちょうどラグビー留学をしていた四宮洋平選手(のちの日本代表)がクラブのチームメイトで、彼の知り合いがいるオークランドへ一緒に食事に行った際、現在コカ・コーラウエストでパフォーマンスコーディネーター兼通訳を務める大野賢治さんと出会った。そして、コカ・コーラの入団テストを受けてみないかと誘われた。
「そりゃもう、ホント嬉しかったです。日本に帰っても何のアテもなかったので、故郷の佐世保に戻ってハローワークに行くことを考えていました。ラグビー人生を続けられたのは、あの出会いのおかげです。で、帰国して、コーラの練習に2回参加させてもらいました。合格の報せをどんな状況で聞いたかは忘れましたけど、『とりあえず職が見つかった!』というのが最初の気持ちでした(笑)。正直、ラグビーでやっていく自信はまったくなかったです」
もともとFLだった徳住だが、コカ・コーラではBKの仕事を求められた。入団2年目には日本代表監督を退任したばかりの向井昭吾氏がレッドスパークスの指揮官となり、FB、WTB、CTBでのチャレンジは熱を帯びる。
「ジャパンの監督をされていた方ですからね、理論的に『アレはこうでこう…』と理由づけて教えてくれるのかなと最初は思ったんです。でも、向井さんがボクに一番求めていたのは、たぶん、体を当てたり、相手が嫌がることをしたり、泥臭いプレー。自分は上手な選手ではなかったからこそ、その部分で力を発揮できました。だから、試合に出る機会を与えてくれたんじゃないですかね」
あるベテラン記者の話によると、向井さんは「徳住のような選手こそジャパンに推したいんだ」と言っていたらしい。己に妥協を許さない徳住は、周囲も驚くほどの練習量でプレーを磨き、特にタックルには自信をつけて、チームに必要な選手に成長していった。
「コカ・コーラで10年間。長くやりましたね…。でも、早いですね、10年て」
小学5年から数えれば、ラグビー人生は約22年間。一番思い出に残っているのは、日本最高峰のトップリーグで試合をしたこと。特に2007年11月10日の花園で、サントリーに23−22で勝った試合はよく覚えている。後半から出場したCTB徳住は、13点差を追う後半15分にチーム最初のトライを挙げて勢いをつけ、逆転劇をもたらした。もちろん、チームがトップリーグに昇格して初めての試合(2006年9月2日の日本IBM戦)も、初勝利を挙げた2週間後のヤマハ発動機戦も、トップリーグから降格した2012年も、胸に焼き付いている。
そして、トップリーグ再昇格を目指して必死に戦った昨シーズン、2013年1月12日の三菱重工相模原戦が徳住にとっての最後の試合となってしまった。次の週、チームが豊田自動織機戦で目標を達成したとき、彼は病院にいた。
「実はトップチャレンジの最終戦も出る予定だったんですけど、最後の練習で右足の肉離れをしてですね…。入院してしまったんですよ、3週間(苦笑)。だから、最後は病院で。そこは締まりが悪かったですね。織機戦は地元・福岡での開催だったから、家族に自分のプレー姿を見せてやりたかったなぁ。グラウンドで終わりたかったです…。でも、いいタイミングやったかもしれないですね」
生き残るのが難しい、アスリートの世界だ。まだ現役を続けたい気持ちはあったが、シーズンを通して体力の衰えは感じていた。それに、若い選手たちに出場機会を与えたいという思いも。
「心のどこかで未練はあります。たぶん、辞める人は皆あるんじゃないですかね。ましてやトップリーグに昇格しましたから。もう一度、あの緊張感のある試合を味わいたかったですね。何とも言えない、あの緊張感を」
スーパースターにも、いぶし銀にも、いつか訪れる引退の時がついに来た。
「私は入ってきた経緯がほかの人間とは違います。とにかく、コーラでプレーする機会を与えてくださったすべての関係者にお礼を言いたいです。会社には長くラグビーをやらせてもらったので、恩返しというか、今後は少しでも会社に貢献できるような人間になりたいです。もちろん、これからもラグビーにかかわっていきたいという思いはあります。でも、指導者になると責任がすごく大きいですからね。何も考えず、普通のラグビー好きな中年になりたいという気持ちもあるんです(笑)」
4月から、徳住茂久はコカ・コーラウエストレッドスパークスのBKコーチに就任した。彼のラグビー人生は、新しい章が始まった。選手引退を表明した直後のインタビューの際、やり残したことや後悔していることはないかという質問に対し、徳住はこう答えた。
「自分が生きることに精一杯だったので、若い子たちにかまってあげられなかったんです。気取っているかもしれないですけど、ボクみたいな泥臭い奴をですね、もっと作りたかったなと…」
能弁の人ではない。しかしこの男には、ガムシャラだった日々の経験を、次世代に伝える義務がある。
新しい道を進む、すべての人にエールを送りたい。
春、桜の花はほとんど散ってしまったけれど、若葉が輝いてきた。
(文・竹中 清)
(写真:ラストゲームでの徳住茂久/撮影:新屋敷こずえ)