泥臭く。必要とされることを。花田広樹[宗像サニックスブルース]は、こんな人。
開幕から4戦連続で先発した。
外国人選手も含め、層の厚いバックローの中で出場し続けたのだから価値がある。
花田広樹が宗像サニックスブルースの6番として中国電力レッドレグリオンズ戦、九州電力キューデンヴォルテクス戦、清水建設江東ブルーシャークス戦、7番としてクリタウォーターガッシュ昭島戦でスターターを務めた。
リーグワン初戦となるはずたった豊田自動織機シャトルズ愛知戦はコロナ禍で実施されず(2月27日に予定されていた同カードも中止)、チームは当初の予定とは違う準備を経てシーズンインとなった。
しかし選手たちは、慌てることなくベストを尽くして調整した。
花田もそうやってチャンスを掴んだ。
184センチ、100キロ。外国人選手のようなパワーはないけれど、自分のことをよく理解してプレーする。
「運動量、仕事量を意識してプレーしています。動き続け、下のボールのセービングなど、泥臭くプレーすることでチームに貢献したい」
それが必要とされた。
自分の生きる道を知るのは、ニュージーランドで半年ほどプレーしたことがきっかけだった。
福岡大学卒業後にラグビー王国へ。クライストチャーチで暮らし、クルセイダーズのアカデミーに学ぶ。地元クラブ、シャーリーバイキングスに所属してプレーをした。
大男たちやパワー自慢のアイランダーがチームメートにはたくさんいた。彼らがしないプレー、自分にしかできない働きをする必要があった。
動き続けること、泥臭いプレーは必然だった。
他より突出する生き方とは無縁だ。全国屈指の強豪、東福岡高校出身も、バリバリのレギュラーではなく、ベンチスタートやBチームの時間も長かった。
3年時の初夏まではWTBも。同ポジションではクビ宣告。バックローへの転向を提案された。
同期が関東や関西の強豪大学に進学する中、地元の大学へ。脚光を浴びることはなかったけれど、ラグビーを愛する心を失わなかったからいまがある。
「就職のことを考え始めた時、やっぱりラグビーを続けたいな、と思いました。高校時代の同期たちも、強豪でプレーを続けるという話が聞こえてきたこともあったので」
ただそのとき、自分にそれだけの実力があるとは思えなかったから海外で力をつけ、その後、チャンスを掴もうと考えた。
その結果が海外挑戦であり、同期より1年遅れでのコカ・コーラ入りだった。
8歳のとき、RFC筑豊ジュニアでラグビーを始めた。しかし、中学ラグビースクールが地元にはなかったため、進学した飯塚市立二瀬中では陸上部へ。ハードル競技に打ち込みながら、「高校に進学したらラグビーを」と思い続け、行動に移した。
「ラグビーが好き。その気持ちだけは、ずっと変わらないんです」
ゆっくりと、着実に階段を昇る人生っていいなあ。
昨春コカ・コーラレッドスパークスが廃部になった。
働きながらプレーをしていた。職場の人たちのサポートを受けながら活動していることに感謝の気持ちを持っていたが、ショッキングな現実に考えた。
「会社をはじめ、多くの支えがあったからプレーできていました。分かっているつもりでしたが、あらためて強く、そう感じました」
サポートは永遠ではなかった。勝負の世界に生きていることを忘れていたつもりはないが、結果を残していれば状況は違っただろう。
辛い記憶を忘れずに生きていく。
ブルースではラグビーに没頭できる生活となった。「ずっと福岡で生活し、ラグビーをしてきました。そしていま、ラグビーに集中できる環境がある」
オンとオフをうまく切り替えながら、自分を高めることに時間を注ぐ。
開幕から3戦連続の試合出場も、満足はしていない。「もっとやれたと思います。もっとインパクトあるプレーをしたかった」と振り返る。
特に苦しんだ初戦を振り返って言う。
「中国電力にコンタクトが好きな選手が多いことは分かっていたのに、最初、そこで勢いに飲まれてしまった」
同じ轍を踏むつもりはない。
昨シーズンは途中からばかりの5戦出場で、総プレー時間は70分にも届かなかった。
その時間を今季はすでに上回り(開幕からの2戦はともにフル出場)、「どれだけ試合を想定して練習しても、試合の中でしか得られないもの、感じられないことがある」と話す。
今後も1試合でも、1分でも多くピッチに立ちたい。そして何より、チームに貢献をする。
シーズン中も成長の階段を昇り続ける。