一生の宝、強い腰で得た。伊藤欣末[東京ガス/PR]
地方出身者は、高校卒業後の春を思い出してほしい。
都会に出るだけでも大冒険だっただろう。さらに仕事に就くとなれば、それまでの人生とは大きく変わる。
親からお金をもらう生活から、働き、自立する。それだけで毎日、神経がすり減りそうだ。
東京ガスのPR、伊藤欣末(よしとも)は福島の郡山北工業高校から2012年の春に入社した。
それから10年、ラグビー部と職場で力を発揮する人生を送る。2021年度のシーズンを終えてブーツを脱いだ。
入社当時を思い出す。
「最初は勝手が分かりませんでした。社会人としての生活も分かっていなかったし、田舎で暮らしていたので、電車に乗ったこともなかった。てんやわんや、でした」
そんな中でよくやっていたな。笑顔で若き日を懐かしむ。
「仕事とラグビーを両立できていたか、できていなかったかで言えば、できていなかったと思います。ただ、ラグビー部に(自分より)強い人たちがいるのは当たり前だと分かっていたので、努力しかない、と取り組みました」
その姿を見ていたから、周囲は手を差しのべてくれた。
「仕事をちゃんとやり、社会を理解できるようになるのに3年ぐらいかかったと思います。でも、先輩たちがいたからやれた。優しく声をかけてもらいました。もともと途中で投げ出すのが好きではない性格ですが、仕事とラグビーをきちんとやっている先輩たちの姿と優しさが、10年やれた原動力でした」
中学時代は野球部に所属した。ただ、高校進学時に「硬式は怖いな」と考えた。
自分の未来を探った。
当時、福島県の受験システムは独特だった。推薦合格を狙う一期選抜と、通常入試の二期選抜があった。
運動神経に自信のあった伊藤は、やったことのないラグビー枠で一期選抜を受験し、合格。入学後、楕円球を手に走り出した。
バックローとしてプレーし、U17東北代表、福島県代表に選ばれた。
そんなきっかけで出会ったラグビーを13年続けた。
「こんなに長く続けることになるなんて」と愉快に笑う。
東京ガスでも1年半はフランカー。その後、プロップに転向した。
「走るポジションから、体を大きくし、パワーが求められることになりました。最初は大変でした」
80キロ弱だった体重は、100キロ超となった。
活躍の場をフロントローに移しても、強い足腰がプレーの支えとなった。
「ただ、長くプロップをやっていた人たちには、なかなか敵いませんでした。試合に出られない期間も長かった。(対等にやれるようになるまでに)5、6年はかかったと思うので、チームに貢献できたのは、ここ3、4年かな、と感じています」
引退を決めた理由のひとつは、膝のケガだ。4年前に左膝の半月板を痛め、手術も受けた。
「技術的にうまい選手ではなく、力強く、必死に前に出ることぐらいしかできません。それなのに、膝のケガで思うようなプレーができなくなってきたので」
ラストゲームは2021年度シーズンの最終戦、対ヤクルトレビンズだった。背番号18をつけて、後半18分からピッチに立つ。いい流れをつかんだ時間もあったけれど、20-34で敗れる。
試合が終わった瞬間は悔しくてたまらなかった。「まだプレーを続けようか」との思いも一瞬頭をよぎったけれど思いとどまった。
ウエートトレーニングを地道に積み重ねてきた。そのお陰で、「チームでいちばんの力持ち」と胸を張れるまでになった。
しかし、全力でやれない状況が増えてきたことが歯痒かった。
「ケガでトレーニングに100パーセントで取り組めなくなったことも辞める理由です。なあなあでやり続けるよりは、支える側にまわろうと」
この春からはスタッフとしてチームに関わる日々が始まる。
勝った時、うまくプレーできた時、トライの時に、みんなが駆け寄って喜び合う。
ラグビーの、そんなところが好きだった。ひとりではできない。一人ひとりに責任がある。チームスポーツの良さが詰まっていた。
インゴールにボールを置いた時に、仲間の笑顔が集まってくるときの嬉しさ。それを秩父宮ラグビー場で味わった瞬間は宝物だ。
2015年9月26日のセコム戦。1183人のファンが見つめる中、伊藤は先発の小山洋平に代わり、後半28分から試合に入った。
試合終了間際の後半42分だった。相手ボールラインアウトに並ぶ。投入。相手は確保できず、ボールが自分の目の前に落ちた。
そのボールを手にすると、まっすぐトライラインに向かった。最後は相手を引きずりながら、ボールをインゴールに置いた。
宴席にて話せば場が盛り上がる、一生語っていけるトライ。華麗な走りではなく、腰の強さを見せつけてのものというところがいい。
泥臭いトライは、何度自慢しても愛される。