タックルマン石塚武生の青春日記⑬
リコー入社。仕事とラグビー。
真夜中のランニング。
Stay Hungry, Stay foolish.
1975(昭和50)年は、コンピューター史において画期的な年だった。
米国でマイクロソフト社が、ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏によって創業された。
翌年にはアップル社が、スティーブ・ジョブズ氏とスティーブ・ウォズニアック氏によって創業されることになった。
ちなみに、ゲイツ氏とジョブズ氏はともに1955年生まれだった。つまり、マイクロソフト社とアップル社の出現、パソコンの商業化は「時代の必然」だったわけだ。
この年の春、タックルマンこと石塚武生さんは早大を卒業し、OA機器会社のリコーに就職した。
石塚さんは古びたラグビーノートにこう、記している。
〈大学時代、勝負の世界の緊張感、勝つことのすばらしさを知った。負けることのくやしさを知った。そして何より、自分の持てるものをすべて出せることはすばらしいではないか。どん欲にがむしゃらにラグビーに突き進んできてしまった今、このまま引き下がれない。社会人でもラグビーで勝負することにした〉
当時の社会人ラグビーは、リコーと近鉄などによる”戦国時代”の様相を呈していた。だが、リコーも近鉄も世代交代が進み、相対的に弱体化していった。代わって、台頭してきたのが、新日鉄釜石である。
また高度成長期が終焉を迎え、景気も悪化していた。〈希望と少しばかりの不安を持って入社した〉と石塚さんはノートに心中を吐露している。
〈あいにく会社の景気が悪くなったため、1カ月間の自宅待機という通知が送られてきた。別になんのショックもなかった。学生と社会人との気持ちの切り替えの期間として好都合だったかもしれない。リコーの関連会社で1カ月間、アルバイトすることになり、トラックの助手として荷物の積み下ろしなどをやった。もちろん、リコーの夜の練習には参加した〉
5月1日、石塚さんは晴れてリコーに入社した。数カ月間の研修を経て、電送機器の営業部門に配属された。
最初の仕事がファックス機の販売員(セールスマン)だった。当時の電送高速ファクシミリが一台、〈260万円〉もした。これを企業に対し、50台、100台とまとめて販売することになる。
ノルマが決まっていたから、かなりのプレッシャー業務だっただろう。
当時はアマチュアリズム全盛である。社会人ラガーは他の社員同様、仕事に励み、夜、練習に取り組んでいた。
早大で石塚さんの3学年の後輩となり、その後、リコーに就職することになる伊藤隆さんは、こう説明する。
「ラグビー部員の特別扱いはなかったよね。月曜日以外は毎日練習。午前8時45分から午後5時半まで働いて、午後7時から、二子玉川のグラウンドで練習が始まるわけさ。練習が終わって、風呂に入って、メシ食うと、夜10時半とかになっていた」
伊藤さんは現在、リコーを定年退社し、関東ラグビー協会の理事を務めている。
66歳。競技委員長などでもあり、関東協会主催の試合の日はキックオフ2時間以上も前に会場に入る。12月4日の土曜日。秩父宮ラグビー場そばのホテルのラウンジで話を聞いた。
「石塚さんのことで」とお願いすれば、すぐに時間をつくってくれた。筆者はかつてオール早稲田で一緒にプレーをさせていただいたこともある。根がやさしい人なのだ。
伊藤さんは現役時代、左フランカーで、右フランカーの石塚さんと6、7番のコンビを組んでいた。日本代表でも一緒にプレーした。伊藤さんは、ラグビーの5つのコアバリュー(インテグリティ=品位、パッション=情熱、ソリダリティ=結束、ディシプリン=規律、リスペクト=尊重)を大事にしている。一番は?
「おれはインテグリティかな。石塚さんはパッションの人だった」
リコーの練習はハードだった。そりゃ、石塚さんがキャプテンだもの。ワセダと一緒の緊張感だっただろう。伊藤さんが早大1年の時、キャプテンが石塚さんだった。
リコーに入社した時も、主将は石塚さんだった。
「練習のきつさはもちろん、終わりが見えないんだから。公式戦直前の日以外は、くる日もくる日も猛練習だった。石塚さんは最初、あこがれの存在だったけれど、両方が日本代表になってくると、先輩、後輩ではなく、ライバル関係のようになっていった。おれと石塚さんは全体練習後、居残り練習をするわけさ。あの人が、おれより先にグラウンドをあがったことはなかった。負けず嫌いでストイック。自分にも厳しい人だった」
石塚さんは銀座の営業本部から、青山本社の人事部に移った。人事部は会社で座ることが多くなったからだろう、二子玉川のラグビー部寮から青山本社までランニングで通うことになったそうだ。