女子 2021.08.26

【コラム】それでも、ラグビーが好きだ。

[ 田村一博 ]
【コラム】それでも、ラグビーが好きだ。
154センチ、63キロ。名古屋レディース所属。今季の太陽生命ウィメンズセブンズシリーズへの出場は、代表選考への追試的位置付けだったが、「いちばん近いところにいる各クラブの仲間たちに(代表選手と)納得してもらって(五輪に)出たかった」から歓迎だった。その言葉通り、高いパフォーマンスを見せたが願い通りの結果は手にできなかった(撮影/松本かおり)



 10年近く、すべてを五輪に懸けてきた。
 でも、それをアスリート人生の目的にしていたわけではなかったから、大黒田裕芽はこれまで辛いことを乗りこえてこられたし、これからも歩んでいける。

 今季は太陽生命ウィメンズセブンズシリーズに「ほぼサクラセブンズ」で構成されたチャレンジチームの一員として出場し(2大会)、躍動した。
 司令塔としてチームを優勝に導く。
 でも、いつも浮かない顔をしていた。

 理由が分かったのは、6月19日だった。
 その日、東京オリンピックに出場する女子セブンズ日本代表の12人とバックアップメンバー(4人)が発表された。
 そこに大黒田の名前はなかった。

 市立船橋高校3年生の時に初めて同代表に選ばれて以来、33キャップ(セブンズ)を重ねてきた。
 世界各地を旅して戦い、リオ五輪にも出場。そのとき10位に終わった悔しさを東京で晴らそうと心に誓い、準備を進めてきた。

 コロナ禍の中で自身の課題克服に注力した。コンディションが高まっているのは、太陽生命シリーズの試合でのパフォーマンスを見ても明らかだった。
 自ら仕掛ける、走る、司令塔としてチームを勝利に導く。五輪の舞台でも同様のプレーを期待する人は多かっただろう。

 しかし、好調だったSOは五輪の舞台に立てなかった。
 国内シーンで好パフォーマンスを出し、優勝して大会MVPに輝いたあとも思い切り笑っていなかったのは、残した結果が、女子セブンズ代表を率いるハレ・マキリ ヘッドコーチ(以下、HC)の目にどう映るか気になっていたからだ。

 指揮官の指令である「チームシステム遂行第一」の方針に迷いが生じていた。
 スキあらば走る。その積極性が自身の持ち味だ。
 誰かが仕掛けた時、サポートプレーヤーが湧いて出るように前に出る。それが、日本が世界と伍していける強みと、長年の経験から感じていた。
 それなのに、「前が空いている時でも、走る、パスする、それともキックか、自分の判断以外にも(チームとしての)選択肢が頭をよぎる感覚になっていた」。

 その結果の落選だった。
 本人は、「チームファーストを考えてプレーしていたが、自分をチームにフィットさせるのが難しかった。(HCと)同じ景色を見ることができなかったし、感覚を共有できなかったのだと思う」と自身にベクトルを向ける。

 五輪が予定通り、2020年の夏に開催されていたら晴れ舞台に立っていただろう。準備期間の中で、指揮官の交代(昨年12月)や方針の変更もあったけれど、「誰がHCだろうと、その人を納得させられなかった時点で負け。どんなチームでもやっていける力が必要だった」と話す。
 メンバーから外れたと知った時は「死ぬほど悔しかった」。
 しかし、やってきたことはひとつも無駄でなかったし、残念な結果も今後に生きると信じている。

 そうは言っても、落選宣告の瞬間、頭の中は本当に真っ白になった。
 なんだかんだいっても残れるだろう。いや、落ちることもある。すべての可能性を覚悟していても、重い結果を受け止めた瞬間はそうなった。
 五輪メンバーがプレスリリースされる2日前に知らされた。前日に最後のセレクションマッチがおこなわれていた。

 熊谷のホテル。練習への準備を済ませた上で、全員ミーティングがあった。
 そこで五輪メンバーの名前が一人ひとり読み上げられた。

「(名前の順番が)ポジション順かなんだったかも分かりません。最後まで自分の名前が出てこなかった。覚えているのはそれだけで、誰が(五輪に)選ばれたのかも分からなかった」
 選ばれた人たちはそのまま練習へ。外れた者は解散となった。
 呆然としていた。誰かと「(部屋に戻って)片付けなきゃね」と話した記憶はある。

 お世話になった方々へ選考結果を伝えるのは辛かった。
 しかし、人のあたたかさに触れる時間にもなった。
 プレーを見て、いつもワクワクしていたよ。
 少し、ゆっくりして。
 応援してくれる人たちの有り難さを感じた。
 自分なんて。ネガティブになっていた気持ちが前向きになった。

 原点を思い出した。
 8歳のとき、松戸少年ラグビースクールに入った。幼い時の憧れは2003年ワールドカップでイングランド代表を頂点に導いたSO、ジョニー・ウィルキンソン。
 小学5年生時、「将来は日本代表になる」と周囲に話した。

 ラグビーが好きだ。その心はいくつになっても変わらなかった。
 競技ステージがどんどん高くなり、楽しいことも増えたけれど、うまくいかないこと、海外チームとの対戦で負けが込んだり、辛いこともたくさんあった。
「そんな中でも、悩んだことはあったとしても、ラグビーを嫌いになったことは一度もないんです」と言う。

「それは今回も、です。ラグビーをやっているうちに、五輪がきた(ラグビーが五輪競技になった)。それに出場することを目標にしてきました。でも、思いが叶わなかったから引退します、とはなりません。ラグビーが好きですから」
 東京オリンピック後、痛めていた左肩を手術したのもプレー再開に備えてのものだ。いま、15人制にも本気で勝負したいと思っている。

 仲間たちが東京スタジアムで奮闘する姿は、ひとり名古屋の自室でテレビ観戦した。誰かと一緒に応援しながら観る手もあったが、「(周囲に)気をつかわせても悪いと思って」と表情を崩した。
 メンバー落選後、「これまでやれなかったことをやってみようと思って」髪を金色に染めた。しかし、1週間後にバックアップ選手として再招集される。「すぐに(黒く)染め直しました」。

「再招集してもらい、またチャンスをもらえた。本気で(メンバー入りを)獲りにいきました。でも、またダメでした」
 それについては「情けないですよね」と笑える自分がいた。
「本気で獲りにいきましたが、(呼び戻されて)ラッキーだったわけですから。最初の落選の時より、結果を落ち着いて受け入れられる自分がいました」
 この夏の経験で、ひと回り器の大きくなった大黒田裕芽がいたと言っていいだろう。

 子どもの頃、スクールのコーチが教えてくれた。
「ラグビーは人生と同じくらいうまくいかないことが多い」
 以前、大黒田は「その言葉を肝に銘じてきたので、ケガなど、苦しいときにも心が折れなかった」と言っていた。

 死ぬほど悔しいことがあろうと、ラグビーが好きだ。
 五輪が終わっても、人生は続く。ラグビーも続く。
 人間としての成長も続く。

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