【ラグリパWest】アカクロ、沖縄を経て母校に帰る。細川明彦 [京都工学院コーチ]
高校時代にすり込まれたのは「信は力なり」。アカクロを目指した修練の日々。南西の島にも飛んだ。
細川明彦は楕円球と関わりを持ち続ける。
そして、この春、母校にコーチとして帰る。名は伏見工から京都工学院に変わったが、全国高校大会V4の偉業は消えることはない。
「ファミリーのひとりとして、強いチームをもう一回作り上げていきたいです」
37歳。柔らかい表情とは裏腹に心は燃える。
OB監督の大島淳史の評価は高い。
「むちゃくちゃ助かっています」
2つの理由を述べる。
「現役の時、ともに高い志を持ってやっていました。部員に求める部分は同じです。それに細川はSOだったので理論的。僕の苦手な部分をカバーしてくれます」
大島は細川の2学年上。FLとして、170センチほどの体をぶつけまくった。2人が重なった2000年度、大島は主将として80回全国大会でチームを3回目の優勝に導く。決勝は佐賀工に21−3。卒業後は日体大に進み、京都市の保健・体育教員となった。
大島が言う理論を細川は早稲田で身に着ける。大学選手権優勝は最多の16回。創部は1918年(大正7)。100年を超える歴史で磨き上げられた方法論がある。
キックの精度を中心にバランスに優れる細川は自己推薦で社会科学部に合格。5段階の評定平均値は4.7あった。
「いや、伏見ですから」
謙遜するが、勉強の継続と困難な目標に到達する粘り強さを示す。
入学直前の競技歴は全国4強が残る。3年時の82回大会は東福岡に10−17。HB団を組んだのは田中史朗。日本代表キャップ75を持つSHは今、キヤノンに在籍する。
伏見工のラグビー部から早稲田入学は4人。細川はその先駆けになる。1960年(昭和35)の創部から40年以上を経る。そのあとには前田吉寛、井口剛志、芦谷(あしや)勇帆が続いた。
ただ、この先駆者は4年間、赤黒ジャージーに袖を通せなかった。最高は二軍のB。同期に曽我部佳憲がいた。卒業後、ヤマハ発動機でプレーするSOは長いパスなど攻撃的だった。チームは2、3年時に大学選手権連覇。4年時の43回大会(2006年度)は決勝で関東学院に26−33で敗れた。
「早稲田はストイックでした」
上井草の寮、目覚めたら、3学年下のSH、櫻井朋広が床で寝ていた。
「筋トレをしすぎて、二段ベッドの梯子を上がれませんでした」
WTBは空気抵抗をなくすため、体毛を剃る。すべては勝利に集約されていた。